カテゴリ:上野と寛永寺
やあ、ただいま~。
昨日は旅の雑談をもう少し書こうかと思ってましたが、ダメでした。 新幹線に乗り込んでから名古屋の先までご飯を食べていて、 食後は泥になって撃沈・・・ 帰ってからPCの前にも座りましたが、 極度の疲労につき寝てしまいました。 なんせ、4泊5日でトータル90,275歩。 撮った写真は1,554枚(笑)。 歩数の方は1日あたりは私の中では飛びぬけて多かった数字はなかったけど、 結構山道も含まれてますし、ホントに朝から寝るまで忙しかったので、 とにかく疲れました。 それでも、かなり満足のいく旅になりまして、 体力的にはキツかったけどそれ以上に楽しい旅で 5日間があっとゆー間でした。 旅先からの記事の中のいくつかのヒントを基に 今回の行き先の見当がついた方もおられるかもしれませんが、 わからない方は次回のシリーズをお待ちください。 まずは現時点までの上野編をまとめて書いてしまおうと思ってますので。 てな訳で、ここから本格的に上野編を再開いたします。 両大師から旧本坊跡地であるトーハクへ移って、 現在のトーハクの様子を紹介したのが前回の記事でした。 第二編ではトーハクへは入らず、正門前を通過してこれを見に行きました↓。 ![]() 【旧因州池田屋敷表門(黒門) 重要文化財 この門は、もと因州池田家江戸屋敷の表門で丸の内大名小路(現丸の内3丁目)に 建てられていたが、明治25年、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移築された。 のちに東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれる。 表門は昭和29年3月、さらにここに移建して修理を加えたものである。創建年代は 明らかでないが、形式と手法からみて、江戸時代末期のものである。屋根は 入母屋造り、門の左右に向唐破風造の番所を備えており、大名屋敷表門として 最も格式が高い。昭和26年9月、重要文化財に指定。】 (現地解説板より) 個人的に池田輝政はあまり好きじゃないですが、 岡山編で少し池田家のことを書いたのもあり、 因州なら鳥取の光仲のとこだよな・・・と思って、 ついでぐらいの感覚で寄りました。 まあ、解説によると江戸も後期の建築らしいから、 光仲がこの門を目にしたことはなさそうだけど。 それにしてもこの門、ついでに見る程度のものではなく、 写真で見るよりはるかに重厚で素晴らしい門でした。 まず、デカい。 あまりにデカいので、全体を写すには通りを挟んだくらいまで離れないと 画面に入りきらない↓。 ![]() この時はフェンスの外側から見ただけだったので、 望遠で撮った門の細部の写真をいくつか紹介しましょう。 ![]() ![]() なんで因州池田家で菊紋なんだろう?と思ったけど、 たぶん明治に入って宮家の門に使用されてから付けられたものなんだろうな。 で、ここも滴水瓦がある↓。 ![]() 大棟の部分↓。 小さい菊が沢山あるから、移築の際に結構手が入れられたってことになるよな。 ![]() 左右にある門番部屋まで唐破風で、格式もばっちり↓。 ![]() ![]() ![]() とにかく、ホントにすごい。 これは上屋敷の門らしいけど、確かにこの風格、上屋敷の表門にふさわしい。 上記リンク先の記事でも書いたけど、光政と光仲が岡山と鳥取をチェンジして以降の 因州池田家は、徳川家とのゆかりもあるからこれだけのものを造れたのかもしれない。 「格」というのは、現代の私達が考える以上に当時重視されていたと思うし、 門がこれなら内部の建物もこれに見合うだけのものだったはず。 この門の向こうに、当時どんな立派な建物があったのかを想像するだけでも ゾクゾクしますね~。 丸の内3丁目ってどこじゃい?と思ったら、 皇居馬場先門を出てすぐ、現在の帝国劇場とか新東京ビルを含む1ブロックらしい。 結構デカい区画。 江戸期の江戸って意外にガイドブックの類が盛んに出版されていたらしく、 地図なんかもこぞって刷られているので、 時代によっては町人町と大名町を分ける内堀東側の内側だけでも 結構変遷があったことが窺われるんだけど、 鳥取藩池田家はおおむね安定してこの地に上屋敷を構えていたらしい。 はっきりした時代はわからないんだけど、馬場先門の外には 鳥取藩池田家と岡山藩池田家がお向かいさんになっていた時期があるらしい。 両池田家の歴史を考えて思わず鼻で笑ってしまったんだけど、 幕末の天保14年(1843)の絵図では岡山藩池田家は この場所から姿を消している。 馬場先堀・日比谷堀のすぐ外側にあたるこのエリア一帯に屋敷を構えるのは、 譜代とか縁戚関係がほとんど。 福山藩阿部家もこのエリアに屋敷を置いてました。 そうした場所に長いこと鳥取藩が上屋敷を持っていたのは、 やっぱり家康外孫の家系というのも大きかったのかな~と思った。 同じ池田でも、岡山藩の方は督姫の系統じゃないからね。 さて、わたくしの手元には『古地図で歩く 江戸城・大名屋敷』(平凡社) という本があります。 NHKの「ブラタモリ」はたまに見ると面白いとは思うものの、 継続して見るだけの根性がありませんが、「ブラタモリ」に登場する 岡本哲志先生が監修された本だそうな。 で、その中に「三つの門はなぜ残ったのか」と題して、 大名屋敷門の流転を紹介したコラムがある。 それによると、大名屋敷の表門は住人である大名の格式によって 形式が決められていたが、この因州池田家のタイプは最高の格式を持つんだそうな。 そりゃそうだよな~。 実物を見れば建築のことを知らない人にもその風格はわかるだろうってぐらいの ものだからな~。 同書によると、 【高松宮邸にこの門があった時は観光バスが来るほどの人気で、 地元から移築反対の陳情があったという。】 なんだそうな。 コラムの同じページには、明治期に描かれた「松平因幡守様江戸御屋敷の図」という 絵が載ってるんだけど、小さいしちょっと見にくい部分もあるものの、 左右の番所はもっと長く前面に突出した形になっていて、 門前に立派な枡形を造り出している。 現在ではこんな風に↓ ![]() ちょっと飛び出た程度の造りになってるけど、 あるいは宮家に移築した際、少し番所の長さを縮めたかもしれない。 この絵が正しければ、門だけでも結構なスペースを必要とするからね。 現在の表門は漆がハゲたように見える箇所はなく、 最初から素木造りのように見えるんだけど、 「松平因幡守様江戸御屋敷の図」に描かれているのは黒い門。 長く前に突き出た番所まで黒く塗られている。 「黒門」というくらいだから、往時は黒漆で塗られていたと考えるのが 自然かもしれない。 両大師にあった、寛永寺の旧本坊表門を思い出してください。 規模は池田家表門の方がデカいけど、イメージとしてはあんな感じになるのかな。 「松平因幡守様江戸御屋敷の図」では、黒塗りの長い番所を取り込む形で 白漆喰の多聞櫓が乗り、白と黒のコントラストが美しい。 関東大震災も、先の戦争での空襲も乗り越えたらしいけど、 それ以前の明治5年にも大火があったらしく、 その難も逃れて現在に雄姿を伝えている。 大名屋敷の門や遺構の中には各地へ移転して現在も残されているものもあるけど、 約300あった諸藩の江戸屋敷の表門で現在重文に指定されているのは 3つだけ。 この池田家表門は最高クラスのものだから、 こんなのが江戸にゴロゴロしてた訳でもないけど、 それでも格下の小大名でも上屋敷の表門ともなれば そこそこの体裁の門は構えていたでしょうから、 当時の江戸の町・・・特に、江戸城に近い場所はどんだけ華やかだったんだろうと 想像せずにはいられない。 ![]() 門の大黒柱ともいうべき鏡柱もとにかく太いから、 乳金物も必然的にデカくなる。 要するに、巨乳 ![]() こちらが向かって左側の番所↓。 ![]() いやホント、番所部分だけでもすごいわ。 ![]() ![]() ↑びっしりと並ぶ瓦の美しさに、ただもううっとり・・・ 外から写真を撮ってる最中、門をくぐってこちら側に来た人達がいた。 そうか、トーハク側からだとくぐれるんだな。 確かに、門の手前にある看板には土日と国民の休日には 開門されると書いてある。 (ただし、天候などの事情で開かない日もあるそうです) いいな、私もくぐりたいな~。 まあいいや、今度トーハクの中に入って、内側から門をじっくり観察しよう。 ![]() にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年07月30日 20時47分57秒
[上野と寛永寺] カテゴリの最新記事
|
|