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戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年02月01日
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カテゴリ:上野と寛永寺
これが大噴水↓。

      上野・根本中堂跡地2(噴水広場)


だいたいこの辺りににない堂があったと思われます。
噴水の近くには初代広重による「東都名所上野東叡山全図」のレリーフがあり、
にない堂はこんな風に描かれてます↓。


      上野・東都名所上野東叡山全図(初代広重)3


画面手前にあるのが、おそらく鐘楼。
これには左甚五郎のこんな伝承があります。

 
  家光の頃、寛永寺に鐘楼を建てることになり、左甚五郎がその柱に龍の彫刻を
  依頼された。ただし、甚五郎だけでなく、他の大工にも細工を頼んで
  腕を競わせようというのだ。

  甚五郎の後見人は天下の御意見番・大久保彦左衛門。
  彦左衛門は期日が迫るにつれ、勝負の行方が気になり、進捗状況を見に行った。

  「どうじゃな、甚五郎。進み具合は?」

  「あ、大久保様。もうほぼ出来上がりです」

  「おお、そうか・・・どれどれ」

  と彦左衛門が龍を見ると、とても荒削りで大ざっぱ。ウロコの部分などはざっくりと
  したもので、まだ完成にはほど遠いように見える。

  「じ・・・甚五郎、それで、完成はいつじゃ?」

  「いや、だからほとんど出来上がりですってば」

  「ウゾ!!ショック

  甚五郎の出来に不安を抱いた彦左衛門は、こっそりライバルの様子を覗きに行った。
  するとそこにはウロコの細工も細かい、実に見事な龍が出来上がっていた。

  「あ~、もうダメじゃ!
   なんで甚五郎はあんな風にしたんじゃ!
   こりゃもう負けじゃ~!!」


  彦左衛門はぷんすか怒り、そのままお披露目の当日を迎えた。
  鐘楼の柱に巻かれた龍には紅白の幕がかけられ、ご開帳の瞬間を待っている。
  少し離れたところに家光が座り、その後ろには招待された町の顔役たち、
  そしてまだ怒っている彦左衛門が座った。

  いよいよ幕が取り払われると、ふくれっ面だった彦左衛門の顔が晴れやかになった。
  離れた所から見ると、ライバルの精巧な龍はせっかくの見事な細工もよく見えず、
  貧弱なウナギのように見える。
  それに対して、甚五郎の龍は側で見ると荒削りだが、遠目には躍動感がありまるで
  生きているように見えたという。

  その後。
  4本の柱に巻かれた龍のうち、甚五郎の龍だけが夜な夜な不忍池へ水を飲みに
  いくという騒動が起こった。甚五郎が

  「可哀想だが、足止めをせにゃならん」

  と金づちで龍の頭にくさびを打ち込むと、龍はぱったり夜遊びをやめたという。


鐘楼は上野戦争で焼失したようで、上のエピソードにある龍も現存していません。


     
   貞秀筆「東叡山之図」-2


これは前回も掲載した図ですが、にない堂の付近には他にも堂宇がありました。
まず、常行堂の奥に輪蔵。
寛永4年(1627)、徳川頼房(家康11男、水戸徳川家初代)によるもの。
それから、法華堂の奥には同じく寛永4年に天海が建てた多宝塔。

上の図には描かれてませんが、多宝塔のすぐ近くには
これまた天海が寛永4年に建てた三十番神社があった。
神社に祀られているのは、法華経を守護する30の神々。

一般の参詣者にとっては、色々な堂宇が集中するこの場所が
文字通り寛永寺の中心部で、かつ華やかな場所と言えるでしょう。



レリーフの近くにはこんな解説板もあった。

 【寛永寺根本中堂跡

  江戸時代、現上野公園の地は東叡山寛永寺境内で、堂塔伽藍が建ち並んでいた。
  いま噴水池のある一帯を、俗に「竹の台」と呼ぶ。そこには回廊がめぐらされ、
  勅額門を入ると、根本中堂が建っていた。

  根本中堂は中堂ともいい、寛永寺の中心的堂宇で、堂内に本尊の薬師如来が奉安して
  あった。斎藤月岑(げっしん)作「武江年表」元禄11年(1698)の項には、
  「八月、東叡山寛永寺根本中堂、文殊楼、仁王門並びに山王社建立。二十八日中堂
  入仏あり、九月六日、瑠璃殿の勅額到着」とある。

  瑠璃殿は中堂の別称で、本尊を薬師瑠璃光如来ともいったのにちなむ。瑠璃殿は
  坂東第一といわれたほど、荘厳華麗であった。瑠璃のように美しかったであろう。
  中堂前両側には、近江延暦寺中堂から根わけの竹が植えられ、「竹の台(うてな)」
  とも呼ばれた。

  竹の台はその名によるものである。慶応4年(1688)5月15日、彰義隊の
  戦争がこの地で起こり、寛永寺堂塔伽藍はほとんどが焼けた。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)


この辺りの歴史は、上野第一編の方でまとめて書いてますので、
もう皆様もおわかりですね。



噴水の脇の通りをぼんやり萌え~しながら歩いてたら、解説板があった。


      上野・根本中堂跡地付近(吉野の山桜)


 【吉野のヤマザクラ

  この桜の木は上野恩賜公園開園130周年を記念して、奈良県吉野町にある金峯山寺
  から上野の寛永寺を通じて寄贈されたものです。江戸時代初期に天海僧正は、
  この地に寛永寺をひらき、吉野から取り寄せた山桜を植えました。それ以来、
  上野はお花見の名所となりました。

  ヤマザクラ
  日本に自生する野生のサクラの一種で、関東以南の野山にみられます。3月下旬~
  4月上旬にわずかに赤く色づいた花と茶褐色の葉が同時にひらき、その調和美が
  昔から詩歌などに多く詠まれてきました。ソメイヨシノが植えられるまでは上野の
  山の桜の多くはヤマザクラであったといわれています。】
  (現地解説板より)


へえ、じゃあ、同じ桜の名所であっても、ソメイヨシノが咲き乱れる現在とは
往時の様子は少し違ってた訳だね。


この木の先に小道があって、どなたかおわすのが見えた。


      上野・根本中堂跡地付近・ボードワン博士像


 【ボードワン博士像 

  オランダ一等軍医ボードワン博士は医学講師として1862年から1871年まで
  滞日した。かつてこの地は、東叡山寛永寺の境内であり、上野の戦争で荒廃したのを
  機に大学附属病院の建設計画が進められていたが、博士はすぐれた自然が失われるのを
  惜しんで政府に公園づくりを提言し、ここの1873年日本初めての公園が
  誕生するに至った。上野恩賜公園開園100年を記念し博士の偉大な功績を顕彰する。】
  (碑文より) 


この銅像が建てられた1973年当時はなんと博士の顔ではなく、
博士の弟の顔の像が造られていたんだそうな(笑)。
で、2006年に正しい顔へと替えられたんだと。

いや、でも「上野観光連盟」様のサイトによると、
この像が建てられるまでにも連盟の努力の歴史があるそうなんですよ。

昭和38年、博士の顕彰をすることを決定。
昭和47年、公園の開園100年を記念して博士の顕彰プランを台東区議会に懇請、
全会一致で採択される。
同時に東京都にも申請し、快諾を得る。

次いでオランダ大使館に協力を要請、駐日オランダ大使の一等書記官殿の助力により
オランダ政府が胸像を制作してくれることとなった。
作者はオランダの一流彫塑家マリ・アンドリッセン氏。

ところが、制作を依頼するのに渡した写真が博士の弟さんのものだったんだそうな。
弟さんはオランダの駐日領事だったという。

ちょっと冗談みたいな話ですが、ボードワンさんは上野の救世主でもあり、
彼がいなかったらあるいは今日の上野は全く違ったものになっていたかもしれない。
実に、顕彰されるにふさわしいお方です。


では、上野戦争で荒廃した後の上野のお山の変遷について
簡単に紹介しましょう。

上野の山一帯は明治維新により国家に没収された。
明治元年12月からは東京府が管理。明治2年2月には山内への立入禁止が解かれ、
民間人も上野を散策できるようになった。

ところが、明治3年3月には当時の民部省が山内の木を伐採して資材にしたいと
東京府に申請。これは断られた。

翌4月には不忍池を埋め立てて水田にする計画が持ち上がったが、
有志が政府要人を動かして阻止。
水田計画はその後も昭和24年まで幾度か繰り返され、その都度阻止された。

5月には現在の噴水広場付近が大学病院の建設用地に決定される。
寛永寺はこぞって反対運動をしたが叶えられず、文部省の用地となった。
魔の手は東照宮にまで及び、あやうく本殿まで破壊されるところだった。

明治5年2月には兵部省の陸軍病院、陸軍墓地の用地となる。
・・・とまあ、広い敷地をみんながヨダレを垂らして欲しがった状況だったらしい。

ここで登場するのが、ドクトル・ボードワン。
中堂跡が大学病院用地に決定したあと、病院の経営にあたる石黒忠悳が
博士を連れて、自慢げに用地を見せびらかした。
ところが、博士は

「こーゆーところは先進国にならって
公園とするべきっしょ。
病院なんてダメダ~メ!!」


と言ってすぐさま太政官に公園建設を進言した。

結局、博士の進言を容れて太政官布達によって上野の山は公園地に決まり、
東京府の管理に移された。
そうは言っても、一旦病院建設が決まったものを、相手方が簡単に了承するはずもない。

この時の東京府知事は大久保一翁さん。
幕末ファンにはおなじみの方ですね。
一翁さん、建設用地をさっさと引き渡せという文部省・民部省を相手に
頑張りました。


「外国の公園などは、その構造などに注意すべきものがあるが、
上野にはすでに徳川家や寛永寺関連の建築物があり、
外国みたいに園内に何も建物を置かないというのは
ちょっと難しいでしょ。

だから、今あるこれらの寺院建築なども園内の一景物として
保存されるのであれば、いいよ。

文部と民部がどうしても一部着手した建物だけを園内に置きたいと
言うのなら、公園の景観と調和の取れたものにしてよね。
それだったら、別に構わないけど?」


・・・結局、建設は取りやめになった。
ボードワン博士も素晴らしいが、一翁さんもさすが。
そして、見ようによっては幕臣である一翁さんが旧主関連の遺構の保存に務めたとも
言えるのに、一翁さんの言い分を認めた当局も大したもんだと思う。



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最終更新日  2014年07月30日 20時47分15秒


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