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戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年03月19日
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カテゴリ:上野と寛永寺
水戸殿の隣が・・・もうおわかりですね。


       上野3・東照宮・尾張光義



 【慶安四年辛卯四月十七日
  尾張国主従二位兼右近衛権中将源光義】


はい、御三家筆頭尾張家の当主・光義さんの奉納品です。
ここまで紀伊頼宣、水戸頼房と来たのに、光義?誰ソレ?って思った方も
多いかもしれませんが、尾張徳川家初代藩主・義直(家康の9男)は
この灯籠が奉納された前年に亡くなってるので、2代目に代替わりしてたようですね。

ま~、光義の奉納だってのに光義のことを書かないのもなんですが(笑)、
前回「殿と附家老」シリーズを2本お届けしたので、
ついでだから第3段・尾張家バージョンをご紹介しましょう。

  
  大坂にて5月7日落城の際、城方と見える4~500人が一か所に固まっているのを
  権現様が茶臼山の上からご覧になり、これ幸いと尾張・紀伊殿に当たらせようと
  仰せになりました。しかし御両殿ともすぐには来なかったので権現様は

  「(成瀬)隼人の腰ぬけめに、とっとと義直を連れて消えろ!って言ってよ」

  と御使役衆に伝言させたところ、権現様のお言葉そのまんまを、尾張衆の皆が
  聞いているところで隼人に伝えたので、隼人はすぐさま

  「この隼人はこれまで腰を抜かした覚えはありませんぞ!
   そうおっしゃる方こそ、武田信玄に出会われた時に腰を抜かしたでしょ!!」


  と皆に聞こえるように大声で言いました。
  戦後、隼人が名古屋から駿府へ参上して権現様の御前で申し上げるには、
  
  「さる大坂落城の日の出来事ですが、私自身は若輩の頃より大御所様に親しく使って
   頂いてますので、どんなに口汚く罵られようともへのかっぱですダッシュ

   しかし、大御所様のお言葉の通りをそのまま、周りで皆が聞いていることなど
   考えもせずに私に伝えるような、そんな思慮のない者にお使い番のような
   大切な役目を仰せつけるべきではありません。

   義直様はまだお若い身ですから、家中でも私の事を皆が頼りにしています。
   そういう私に、隼人の腰ぬけめ、なんて言われた日にゃあ、皆の私を見る目も変わり
   口もきかなくなってしまいますから、あのような畏れおおいお返事をしたのです。
   あの返事はお耳に入ったでしょうが、申し訳ございません。」

   これを権現様はお聞きになって、

   「そりゃそうだよね。お前が正しいわ。」

   と仰せになったとのことです。



ハハハ・・・
もう義直すら出てこないけど、まあ尾張家の紹介ってことで泣き笑い
成瀬隼人正正成さんは尾張家の附家老。

この3話は『駿河土産』に続けて収録されているもので、
3つの話のシメとして、権現様の見立て通り、御三家に配された附家老はそれぞれ
器量を持った人だった、という言葉が添えられている。



尾張義直は家康が57歳の時の子で、関ヶ原の直後に生まれている。
義直から紀伊頼宣・水戸頼房はそれぞれ母親は違うけど、
ほぼ1年おきにぽんぽんぽんと生まれている。

家康が死んだ時、末っ子の頼房は12歳。
まだ幼さの残る末の3人が可愛かったのか、家康は秀忠への遺言の中で

 【義直。頼宣。頼房がごとき年猶幼沖なれば。我いとおしみ尤もふかし。
  よろしく愛憐したまへ】
 (『神君家康の誕生』より)

と託しておるそうな。
あ~、元就おじさんにもこんなエピソードあったよなあ。
やっぱ年くって出来た子ってのは可愛いんだろうなあ。


それにしても、可愛い我が子のために家康が吟味して指名した附家老とはいえ、

「アンタこそ武田信玄にビビったでしょ!!」

って言い返しちゃうのもすごい。
ま、どーせ言うなら

「アンタこそ信玄が怖くてウンコもらしたでしょ!!」

って言っちゃえばよかったのに、さすがにそこは成瀬殿。
それを言っちゃあおしまいよ音符とあえて言葉を選んだのか泣き笑い



さて、尾張光義の隣はこちら↓。


       上野3・東照宮・松平頼重



 【東照宮 寶前
  慶安四年四月十七日
  高松城主従四位下行侍従●右京大夫源頼重】


この方は水戸頼房の長男さんです。
ちょろっとだけど、「上野第二編(32)」で顔を出してるんだあ~。
頼房の側室が懐妊した際、最初に堕胎を命じられた子が頼重。

あの記事を書いた時、私は水戸頼房と三木さんのセンからばっかり攻めていて、
なんで頼房が続けて堕胎を命じたのかがわからなかったんだけど、
ウィキペディアの頼重のページにその理由が書いてあった。

それによると、どうも側室が頼重を懐妊した際、
まだ兄の尾張義直と紀伊頼宣には後継ぎができてなかったので、
兄たちに遠慮したんだと。

それにしても、三木之次(ゆきつぐ)も思い切ったことするよな~と思いきや、
同じウィキペディアのページには

 【頼房の准母英勝院に相談の上、三木之次は江戸麹町の邸宅で秘密裏に出産させ、
  頼房に隠したまま江戸で育てられた。】

とあって、

ああ、そっか~!
そういうことか~!!


とパチンと(ほとんど鳴らないけど)指を鳴らしました。

ええ、もうどんどん光義から離れていきますけど泣き笑い
この方はこの先も出てくるかもしれないので、少しご紹介します。


何に合点がいったのかって、「頼房の准母英勝院」ですよ。
この方は家康の側室で、もとは「お八」といい、次に「お梶」と名を改めた。

お梶さんも実は過去の記事でちょっとだけ顔を出してます(「プチ巣鴨編(2)」参照)。
私がお梶のことを覚えたのは、この巣鴨の勝林寺に行った時。
その後色々本なぞ読んでると、結構あちこちにお梶が顔を出す。

どこで何を読んだかなんてもう忘れちゃったけど、
どこでもやっぱり聡明な女性として描かれてる感じだったかな~。


お梶の出自については、はっきりしたことはわかっていない。
世間で多く語られるのが、太田氏の出というもので、
太田道灌のひ孫の子の娘とされる。
その他、遠山氏の出だとする説や、江戸氏の出だとする説などがある。


ひとまず、家康が入府した天正18年(1590)頃、江戸城へ上がったらしい。
この時お梶12歳。

ここで、びっくらこく説に47歳のイエアスが
12歳のお梶を手籠めにしたとかなんとか・・・(笑)。
さすがにそれはどうかと思うんだけど、のちには家康の側室になった。

後年、お梶が名を「お勝」に改めたのは関ヶ原に連れてって勝ったからだとか、
戦関連によるものだとされる。


家康はお梶の聡明さを愛したらしい。
お梶といえば、

「山!」 「川!」
「お梶!」 「塩!」


ってぐらい塩のエピソードが有名。
あまりに世間で語られすぎているのでここでは書きませんが(←手ヌキ)、
御存じない方は「英勝院」などで検索するとボロボロヒットしますです。

あと、昔の上流の人ってのは衣類なんかは使い捨てだったけど、
お梶は小袖を洗わせては長く着ていた。ある時、女中が

「も~、白い小袖を綺麗に洗うのって大変なんですよ。
侍女たちの手が荒れちゃって・・・
お方様は小袖なんか沢山持ってるんですから、
新しいものを着ればいいじゃありませんか」


これにキレたお梶は女中たちを集め、

「確かに当家には財はあふれてる。
小袖1枚ぐらいどってことないけどさ。
でもこうやってケチケチ生活で貯めたお金で天下に施したり、
子孫のために残して国を治めるのに不足のないよう
心がけてるのよ!

私は天道を一番に畏れてるけど、天道はゼイタクを憎むのよ。
どーしてそれがわからないのようっ!!」



・・・とまではヒステリックじゃなかったかもしれませんが、
厳しく下にも諭したという。

そんなお梶を家康は信頼し、金蔵の鍵まで預けたという話もある。
その他、駿府城の奥向の大半は任されていたとされる。
一時期は家臣に下げ渡されるが、1か月ほどで戻ったともいう。


29歳の時、家康の子を産む。
この子が3歳で夭折したため、不憫に思ったのか家康は子の頼房、
次男・結城秀康の子、それから池田輝政の娘・振姫の養母とした。
振姫は家康の娘・督姫の子なので、家康には外孫にあたる。

他家で生まれた孫はいいけど、可愛い実子まで家康が預けるあたり、
かなりお梶が信頼されていたことがうかがえる。

ただ、養子をもらったのはお梶29歳の時という話もある。
まあ、大体頼房が5歳前後あたりの時に養子になったと思われる。


家康の死後、お梶は落飾して駿府から江戸へ移る。
駿府で育てられていた頼房も同じ頃江戸へ移ったらしいから、
お梶と共に引っ越したのかもしれないな。

兄である尾張義直や紀伊頼宣と違って、頼房は江戸に滞在している期間の方が
長かったらしい。


で、頼房に子ができると、三木さんはお梶に相談して
こっそり頼重を産ませ、ひそかに育てた・・・

まあ、兄たちへの遠慮は美しいものだけど、せっかく儲けた子を流してしまうのも、
御三家の立場からするといかがなもんか・・・

お梶の入れ知恵・・・いへ、機転と配慮により頼重と光圀が生まれた。
のちに光圀は水戸家を継ぐ。
同じ母から生まれたのに、長男である頼重は日陰の身であり、
やっと父に会えた時には光圀が後継ぎに決まっていた。

ので、実質長男でありながら光圀に次ぐ次男の立場として扱われたそうだけど、
要衝の讃岐を与えられ、頼重の子は光圀の養子に迎えられその子が水戸家を継ぐ。


晩年、お梶は鎌倉にある太田道灌の屋敷跡を拝領し、英勝寺を創建する。
英勝寺の初代門主には水戸頼房の娘を迎え、その後も代々水戸家の子女が跡を継ぎ、
英勝寺は「水戸御殿」や「水戸の尼寺」とも呼ばれるなど水戸家と縁が深い。

頼房はお梶を実母同様に遇し、また同じ養子である結城秀康の子・松平忠昌も
お梶のために色々と尽くしたので、江戸では不自由ない生活を送ったらしい。

松平忠昌はお梶の養子となった後、江戸で生活したらしいので
お梶の下で暮らした期間はそう長くないかもしれない。

が、お梶が江戸に移った頃、忠昌と頼房が一緒にいる機会が結構あったらしい。
お梶のそばで2人が会う時は頼房が忠昌を丁重に扱い、
まるで実の兄弟のように仲睦まじかったという。

頼房はいい育てられ方をしたんだろうな~と思うものの、
なんでそんな方が前回のエピソードのようにカブいてしまったものか・・・


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最終更新日  2016年03月15日 22時25分07秒


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