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カテゴリ:瞑想・気づき
第一チャクラトレーニングについて、ユニティインスティテュートのメルマガに書きました。長文ですが面白くて一気に読めたと評判です。
軍隊調の起立礼を強制される体育の授業は大嫌いだった。球を投げたり打ったり蹴ったりするのもまったく興味が持てず、野蛮なガキ共と遊ぶのも嫌で、家で本を読んだり、絵を描いていると、外 で遊んで来なさいと母親から追い出されたことはトラウマになって、大人になってからサイコドラ マをしてもらったことがある。 そんな僕だが、逆立ちは得意で、三角倒立しながら漫画読んだりお菓子を食べてた。 ガンジス河に行った時には、長時間ハタヨガをしているひとたちを見て、懐かしいような恥ずかしさを感じた。「それではどこにも辿り着かないよ」という強い思いが胸から湧いて来たから、ヨガ行者の過去生があるのかと思いきや、やはり子どもの頃は理由もなくくるくる回るのが好きで、倒れるまで回ってたから、スーフィー行者だっのかもしれない。 かと思えば、押し入れに自らこもり暗闇のなかにいるのは大好きだったし、運動の苦手な僕が、潜水だけは得意で、あの耳の中がシーンとする感覚を求めて、お風呂のなかでもよく潜ってた。 柔道や剣道もかじったが、黙祷というのは嫌いだったから、いわゆる目を瞑ってする瞑想というものに、うんざりしていた過去生が長いのかもしれない。 リーラのグループで、自分で見た過去生は、やはりガンジス河のほとりに住む頑固そうな孤独な老人で、うず高く積まれた書籍の山のなかにいて、ホロスコープかなにかの研究をしているみたいだった。 時々、窓から野良猿に餌をあげる。ガンジス河には野良猿がいる。その猿しか友だちのいない老人。 今の暮らしも学者みたいなものだ。時々セッションで人がたずねてくる以外は、猫にご飯をあげながら、学者のように暮らしている。 プラサードからは、何世も何世も探求して来たと言われる。 特に禅のひとだったらしいが、今生では禅にまったく関心がない。古くさい感じがするのだ。 それでプラサードから、中心だけを求めず、中心を生にもたらすことを、もうかれこれ20年以上も 導かれ続け、まだもたもたしている。 エッセンシャル・ライフ・コンサルティングは、内側と外側の統合のセッションだから、まさに自分のテーマにぴったりで、何年間も力を入れて、そのセッションばかりするようになったら、すっかりSkypeで座っていることが多くなって、気がついたら一日中家にいることも多い。 自分のチャクラを感じるに、第一チャクラに気づきがなく、セッションが続いたらご飯を食べるのも忘れて、夜中になっていることもあるし、色んなビジョンはあるけれど、現実化するのは難しい。 週に一回クンダリーニ瞑想をして、シェイクとダンスをすると元気になるし、暑いとか寒いとかあまりわからない僕が、電気を付けたり消したりして、瞑想の環境を整えることをするのも、修行みたいに苦手だ。 ほんとうは瞑想なんてどこでもできると思ってる。 それで、チャクラ・トレーニングの第一チャクラを再受講することにした。これ以上もっと上にのぼるには、第一チャクラの資源につながるしかないとつくづく感じていたからだ。 チャクラ・イベントをやることで、自らも学び、去年は一年間サトルボディヒーリングの研究会も続けたし、リアルにそれを感じだしたのだろう。 このままでは、猿の餌をあげてた観念的な老人の二の舞である。ほんの少し他の人よりは秘教的知識を持っているが、世間と交わらず、しかめっつらの頑固な老人・・・ 幸い、第二チャクラのリズムに気づき、長年の、ハート瞑想のおかげで、孤独ではないけれど、第一チャクラはだめだ。 そうはいっても、ゾルバ・ザ・ブッダを提唱するOSHOの長年の弟子だし、ボディワークなどの素養 もある。若い時は「心と身体の出会い」なんてワークショップにはずいぶん通った。恋愛もたくさんした。太鼓の音と共に脚をどんどこ踏みならすワークショップなんか何度も受けたし、自分でもしてた。しかし、人生体験と瞑想のお陰で、身体もマインドも自分ではないという境地は深めが年とともに大事にしていない身体はガタをきたしている。 ここらでなんとかしないともうだめだと藁にもすがりつく思いで参加したが、アルヴィナの優しい語りり口と、トーショーの通訳に安心して、すっかりくつろいで、春の陽気にぽかぽかするようなトレーニングだった。 ハートから第一チャクラ(身体の)エネルギーを感じることを手取り足取りガイドしてもらった。振り返ると、パーフェクトな進行だ。そして、このタイミングで、第一チャクラにやっとつながれたも、僕にとってはパーフェクトなタイミングだったのだろう。 トレーニングの二日目、身体と対話して身体を無視してきたことを許しを請うエクササイズがあったのだが、僕の身体は、長年自分を無視してきた僕に対して、簡単には許してはくれず、怒りと言うよりも、恨みで石のように固まってた。 その恨みを感じてたらお腹が膨らんで来たから、最近お腹が出ているのはそのせいかもしれない。 恨みつらみこだわりしこりが、癌になったり腫瘍になったりするとは聞いたことがあるが、自分に対する身体を大事にしてくれない怨みが、病気を創るのかもしれないと思って驚愕した。 考えたら当たり前の話だが・・ そしてさらに驚いたのは、エクササイズで許してくれと言ってる僕が、ほんとうに心の底から「君を無視して悪かった」と言っていないことだ。まるで資本家が労働者を抑圧するように、この身体と言う下層階級の復権を否定ている。 これでは身体の方も、許す気持ちにはならず、石のように固まるだけだ。 その日はもんもんとして終わり、答えはハートにあるような気がして、次の日にアルヴィナにシェアした。 たぶん僕のエネルギーについてはぼくよりわかってるアルヴィナにはみな言う必要もなく、「あなたの言うように、マインドと身体は出会えません。ハートだけがそのふたつの葛藤を包み込め、溶かしてくれるでしょう」と言ってくれた。 僕は少し泣きながら、「長い間、こんなことをやってきたのに、できるかなあ?」と不安と弱気にるのだけど、「そうほんとうにあなたは何世紀も(やっぱりまた言われた!) その戦いをしてきたけれど、ハートには時間はないし、それにハートは忍耐強いことを知っているでしょ」と言われて、僕のシェアは終わった。 「ハートがあなたの人生を変えて来たことをあなたは充分経験しているのだから、ハートがあれば、 身体との関わり(第一チャクラ)を変え得ることを知っているでしょう」とも。 その後も一歩一歩、ハートから第一チャクラにつながる瞑想が続き、第一チャクラの中心につながり、それを、第一チャクラの表層のエネルギーにもたらした。 不思議なことに第一チャクラのエネルギーにつながると、実際的実務的な発想が浮かぶ。 この有限な、時間という世界のなかに存在する、身体を使うには、時間も大切にしないといけない。 まるでインド人のように永遠の時間感覚のなかに住んでいることが多い僕にとっては、電車が一本 遅れようが、二本遅れようがノー・プロブレムなのだが、この身体は限定的なものだ。 トーショーとお昼休みに寄った古本屋さんで、「自営業者の老後」という漫画を見つけて買った。 「おひとりさまの老後」とかに当て込んだ漫画本だが、「フリーランスが死ぬまで幸せに生きるために今できること」と帯にあって、年金とか保険とかそういうことが解説されている。 こんな本が目に入って来て、それを手に取り、買って帰ったなんて、僕を知っている人はひっくり返るくらい驚くはずだ。 今までまったく縁がなかった世界だ。もしかしたら過去生からも。 この原稿も締め切りの二日も前に書いている!! 書き終えたら、たまってる請求書を書こう。お腹もすいたから何か食べよう。肩が凝ったから体操しよう。 そんな当たり前のことが僕には一番遠かったのだけれど、ハートを感じながらならできそうだ。 ありがとう。アルヴィナ。ほんとうに感謝してます。 辻本ビジェイ 記 ハート瞑想ティチャー チャクラ・イベント・ティチャー https://mysticunion.wixsite.com/chakra 開催予定のイベント https://mysticunion.wixsite.com/chakra/blank-9 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018.03.09 19:35:31
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