一会員による『学城』第3号の感想(13/13)
(13)学問の創出には、「論理能力の生成発展」を論理的に理解する必要がある 本稿は『学城』第3号の感想を認めることによって、特に全体を貫くテーマとして設定した「論理能力(の生成発展)」という観点から、この第3号の中身を主体的に自分の実力とすることを目的として、これまで第3号に掲載されている11本の論文を取り上げ、その要約を行い、学ぶべき点を明かにしてきたものである。 ここで、『学城』第3号全体を貫くテーマとして設定した「論理能力(の生成発展)」ということの中身を、そもそも「論理能力」とはどういうものかという観点、「論理能力の生成発展」のためにはどのような学びが必要かという観点、及び「論理能力」は何のために必要かという観点の3つに分けて説く形で、これまでの展開を振り返っておきたい。 まず、そもそも「論理能力」とはどういうものかについてである。連載第6回に取り上げた瀬江論文では、論理とは対象とする事物・事象のもつ性質を一般性として把握したものであると説かれていることを紹介し、「実際にあること、あったこと」である事実との対比において、論理が認識の世界での概念であるとしておいた。しかし、事実と論理は無関係であるのではなく、論理はあくまでも事実から導き出すものであり、このことが可能となる実力こそが「論理能力」であることを確認した。そして「論理能力の生成発展」のためには、対象とする事実に共通する性質を大きく括っていって、一般性を把握しようとする論理的な学びが必要であることを説いた。連載第7回で扱った本田・瀬江論文でも、「研究」と「学問」が対比的に捉えられていて、「研究」が事実を細かく追及するものであるのに対して、「学問」は対象とする事実から論理を導き出し、理論化し、体系化することであって、頭の働かせ方が大きく異なるのだとしておいた。連載第9回においては、小田論文を取り上げ、「過去の歴史に学ぶ」というのは、事実をそのまま辿っていくことではなくて、過去においてなされたことの意味を現象に惑わされることなくしっかりと把握し、その筋を辿り返すという「論理能力」が必要であることを説いた。 次に、「論理能力の生成発展」のためにはどのような学びが必要となるのかという問題に関してである。連載第2回に扱った近藤論文に関しては、ヘーゲルやマルクス、さらにはクノーやレーニン、三浦つとむや滝村隆一の国家学説の歴史的=論理的な学びを行うことこそ「論理能力」を磨き上げる上で必須の作業であることを論じた。「国家とは何か」を問う国家学は、実体世界における国家体系を論じるものであるが、学問というものは、いわば観念的世界における学術国家としての体系性を把持したものであって、国家の体系性と学問の体系性との間には大きな共通性があるのであるから、国家学説を学ぶことで学問の論理性を把握することができるし、歴史の論理も学ぶことができるからである。連載第4回で取り上げた悠季論文では、ギリシャがオリエント文化を学んだ過程が説かれていた。端的には、圧倒的な文化レベルの差に規定されて、強烈な憧れと共にオリエントの文化を「丸ごと」受け入れたということが重要な点であって、個人のレベルで「論理能力」を向上させていく場合においても、個性という枠組みを持った像しか反映できないという限界を突破するためには、今の自分を棄てる覚悟で優れた文化遺産を「丸ごと」受け入れる態度が必要になってくると説いておいた。さらに、続く連載第5回で扱った悠季論文においては、ギリシャ哲学の発展過程においては、上述の優れた文化を「丸ごと」受け入れる過程が繰り返し繰り返し重層的になされていったことが説かれていた。これは「場所の移動による文化の発展」という論理を含むものであり、このことは個人としての頭脳活動の発展、「論理能力の生成発展」の過程においても重要なことであって、「場所の移動」によりまったく異なった外界の反映を行うことによって、「論理能力」を向上させることが可能となっていくのであって、これは日本弁証法論理学研究会が措定された"change of the place, change of the brain"の論理であることを説明した。連載第11回に取り上げた井上先生の小説においては、芸術の創作においても「論理能力」が必要であることに触れ、「書くことは考えることである」から、書き続けることによって「論理能力」を高めていく必要があることを説いた。 最後に、「論理能力」は何のために磨くのかという点についてである。連載第3回に扱った加納論文では、人類の系統発生における学問発展の大本には論理能力が大きく関係していたことが述べられていた。そして、この論文において、このことが実地に証明されていたのであった。すなわち、国家論を構築する過程として、ヘーゲルから滝村氏に至る大きな流れを「論理能力」を駆使して説いておられたのであった。連載第8回に取り上げた諸星・悠季論文においても、学問形成のためとして、ヒポクラテスからアリストテレスに至る過程において、如何に「論理能力」が発展していったのかが説かれていた。すなわち、まずは事実を事実としてしっかりと捉え、その上でそれらの事実に共通する性質を論理として掬い出し、さらにこの論理を立体的に位置づけるという理論化を行い、最後に対象とする全ての事実を貫く性質を一般論レベルで把握するという流れであった。これが学問構築につながっていくのであって、端的には、連載第10回の北嶋論文に関して述べたように、学問創出の土台は「論理能力」であって、逆にいえば「論理能力」は学問構築のためにこそ身に付けるべきものだということである。そして最後に、前回、連載第12回で扱った南郷論文では、この「論理能力」を駆使して、学問的実力の一端が示されていたのであった。直接知ることのできない農業や武術の起源について、筋を通して説いていくことは、対象の運動性に特に着目できるような「論理能力」=弁証法の実力鍛えてこそ可能となるものであると説いておいた。 以上、ここまで、『学城』第3号を貫くテーマとして設定した「論理能力(の生成発展)」に関して、これまでの展開を振り返りつつ、「論理能力」の対象論、方法論、目的論に分ける形で説いてきた。端的には、「論理能力」は事実から論理を導き出すことができる能力のことであり、国家論の歴史的=論理的な学びを前提として、多様な対象を脳細胞に反映させることで自分の認識の枠組みを突破しながら養っていくものであって、とにかく書いて書いて書き続ける(考えて考えて考え続ける)覚悟が必要である。こうした研鑽によって獲得した「論理能力」でもって初めて、学問への道が歩めるのである。以上、『学城』第3号においては、人類の歴史、人類の系統発生において創出され、高められてきた「論理能力」を身に付けるためには、個人の歴史、人類の個体発生においても同様の道を辿り返す必要があることが、全編において説かれていたと捉えることができるだろう。 本連載の最後に当たって、1つだけ確認しておくことがある。それは『学城』第3号から学んだ「論理能力」に関する諸々の事柄も、単に知識として学んだのでは、全く学んだことにはならないのだ、ということである。単なる文字として「論理」や「論理能力」、「論理能力の生成発展」などを捉えてしまっていては、受験秀才レベルを超えることなど決してできないのである。我々が目指すものは、本物の学問の構築である以上、『学城』第3号から多くの「知識」を得たというだけの学びではダメであって、「論理」とは何かを論理的に学んだというのでなければならないのである。「論理能力の生成発展」のためにはどうすればいいのか、言葉としてではなく像として把握し、この像を豊かに発展させていきながら、本当の学びを実践し続けることで、真の学問を創出することを約束して、本連載を終了したいと思う。(了)