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テーマ:路線バスで小旅行(249)
カテゴリ:武蔵村山市
(前回からのつづき)
新薬師橋を渡ると、すぐ右手に見える赤い銅板葺屋根の建物が萩の尾薬師堂です。いつ頃の創建か定かでないといいますが、祀られている薬師如来は、八王子の滝山城にあった北条氏家臣石川土佐守の娘の持仏だったと伝えられます。青梅街道から石段を上ると、左の隅には小さな祠があり、中には延文元年(1356)と銘の入った宝篋印塔の基礎部分と笠部分が保存されています。 薬師堂の脇から住宅地の小道を歩いてみます。住居表示は中央3丁目となっていますが、「中央」の名にふさわしいような市街化された新興住宅地といった様子はなく、昔ながらの農家を中心に、ゆったりとした街並みが続いています。 やがて南へ突き出してきた狭山丘陵の先端部分に、緑に包まれた日吉神社があります。小ぶりな社殿の前には、山王宮と刻まれた2本の燈籠が立ち、江戸期には山王様としても親しまれてきた様子がわかります。こちらも創建年代が不詳とされますが、市の設置した説明には、元禄4年(1691)に作られた御神体が三ヶ島の照明院から遷宮されたとあります。三ヶ島とはどこでしょうか。狭山丘陵を挟んで反対側に、埼玉県所沢市三ヶ島の地名がありますが、照明院という寺院は地図上からは見つけられませんでした。 境内には、「重松(じゅうまつ)囃子」の説明板もあります。所沢市出身の古谷重松が、江戸囃子を元に独自の節回しをつけてこの地方に広めたものといわれ、日吉神社では明治から昭和初期にかけて、奉納の行事と農民の娯楽を兼ねて演じられてきたといいます。現在も「萩赤(萩の尾・赤堀地区)重松囃子保存会」により伝承されています。 人気blogランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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武蔵村山近辺の地形図は持っていないので、最近はGoogleマップを参照しながら拝読しています。航空写真に切り替えると、ずいぶん緑が目立つようになりますね。
「萩の尾」好い地名ですね。「中央」はあまりに情けないです。連れ合いの実家も、10数年前までは「馬場一之竪町」という城下町らしい住居表示でしたが、今はやはり「中央」に変わってしまいました。 30,000アクセス達成、おめでとうございます。 (2008.05.01 10:08:07)
Rambler5439さん、いつもありがとうございます。
「中央」のような町名を聞くと、地名の記号化を裏付けされているようで、私のような地名好き人間にはあまり面白くありません。行政の効率化といったことを考えれば、一方的に非難すればよいという類の話しではないかもしれませんが・・・。 「馬場一之竪町」→「中央」・・・地名を郷土の誇りと思うこと自体が、これからの時代にはそぐわないのだとしたら、寂しい限りですね。 (2008.05.03 01:15:59)
私はバス停では「原山」住所は中藤から中央に変わった所で生まれ育ちました。(現在は奈良橋在住)
子供の頃、祖母から「萩の尾薬師堂には神様がいるんだよ」と聞かされたことを思い出しました。 祖母が萩の尾薬師堂の目の前で子供が車にはねられたのを目撃。子供はバンパーに乗り上げてからコロンと落ちたそうです。運転手が駆け寄ると子供はびっくりして走って逃げ出し、運転手が追いかけるとさらに逃げていなくなったそうです。子供は怒られると思ったのだろうが神様のおかげで無傷だったと言っていました。 その後、交通事故が発生してもみんな無傷だったと・・・ 30年以上前の懐かしい祖母との思い出を思い出しました。 ありがとうございました。 (2011.10.25 11:35:54) |