本のタイトル・作者
人生後半、上手にくだる [ 一田憲子 ]
本の目次・あらすじ
1章 歳を重ねてわかったこと「自分の育み方」
2章 老いと向き合う「これからの暮らし方」
3章 関係性を見つめる「人とのかかわり方」
4章 大事なのはバランス「心地よい体づくり・装い方」
感想
2023年020冊目
★★★★
前に読んだ『
もっと早く言ってよ。50代の私から20代の私に伝えたいこと』と重複する話も多かったけれど、非常に耳が痛い内容だった。
歳を重ねて、「あの時ああしておいたら良かったなー」「あの時ああやってたの、後悔してる」のまさにそこにいる私。
筆者の後悔にドンピシャ当てはまっていて、いたたまれない。恥ずか死。
一田さんが仰ってること、「アフロ記者」こと稲垣えみ子さんの言葉とも重なることが多い。
ということは、ある程度年齡を重ねていけば、共通の認識として出てくるのがこれらなのか。
あっちの本物の世界にある「幸せ」を手に入れるためには積み上げなくちゃと信じていた。
もっともっと。目に見えるわかりやすい幸せ。モノとお金とステータス。
そのために、ひたすら頑張らなくちゃいけないと思っていた。
でも年老いて、体力にも精神にも衰えと限界が見えてきて、ふと気付く。
「出来た」を数え上げるだけの幸せは、「出来ない」をどう許容すれば良いのか?
そこにある「幸せ」は何なのか?そもそも自分が信じてきた「幸せ」ってなんだったのか?
という問いと、自らの答えを導き出す段階の年齢。
私はそこまであと二十年くらいあるのだけれど、その時に自分がどう思うのか、感じるのかとても興味がある。
一田さんは、40代の頃がいちばん不安だったという。
夢中で駆け続けた20〜30代を終え、40代になり「私はどこにいるのだろう?」「私はいったい何者になったのだろう?」と、ふと足を止める。
そこではじめて振り返って気付く。この道で良かったのか、このまま進んで良いのか。
うん。私がまさに今、この状態だ。
何者にもなれず、かといって今から何者になれるわけでもなし、ただ中途半端な状態で歳を重ねたような気がする。
田口ランディさんの言葉が紹介されていたけれど、20代30代の頃は「私がこれをやったから、ものごとがうまくいったでしょ」という自己主張がしたかったんだという話。
あああああーーーー!!やめてーーーー!!耳がもげるーーーー!!笑
思い当たる節、ありすぎ。
そしてランディさんは続ける。
「私が間に入ってこれをやりました!」が虚しいのは、働きかけ続けていないと自分が認めてもらえないから。そうして働きかけられない時が、いつか来る。
生産性が価値であるというなら、その価値を失ったとき、自分の中にあるふたつの対立するものを統合することが世界に対する貢献である。
その言葉に、一田さんは「今まで手に入れたものを結びつけていけばいいのか」と反応する。
もっともっとと手を伸ばし、外側にあるものを手に入れる。
それが若い頃の働き方なんだろう。
けれどその後は、自分の内側に蓄えたものを、世の中に返す。
一田さんは、ずっと色んな人に会って刺激をもらい、たくさん本を読んで思考を深め、アップデートする、「1ミリでも成長する」、自分の「いい」の基準を更新するために生きてきたという。
それはすべて、自分が成長するための頑張り。
でも誰かを出し抜いて一人勝ちしてやろうという考えをやめ、協力して交換して一緒に新しい価値を探すことにしたのだそうだ。
私が生きているのは、まだ「人より優れていること」に価値を置く世界。
苦しいんだよね、それは。
「価値があること」「成長すること」「得になること」「有益であること」
そんな線引きをして、いつもその線を超えているかどうかが判断基準になる。
自分が引いたラインを下回ったら、「使えない」「ダメ」「無駄」と切り捨てる。
けれどいつか、そのラインを自分が超えられなくなる。
その時に私は、自分よりだめな人、を探しに行くんじゃないだろうか。
そうして安心しようとするんじゃないだろうか。
今、ただ自分を肯定するために、心の中でそうしているように。
私を見て!私ってすごいでしょ!褒めて褒めて!
そんな自分を、もう一人の自分が嘲り、冷笑している。
私って有能でしょう?仕事ができるでしょう?必要でしょう?
必死な私の頑張りは、滑稽で空回りしているように見える。
もっと頑張れば、褒めてもらえるかもしれない。
もっともっと頑張れば、認めてくれるかもしれない。
たくさん頑張れば―――愛してもらえるかもしれない。
いつまでそんな子どもじみたことを続けるつもりだろう。
いったい自分のことを幾つだと思っているんだ?
今、私がどうすればいいかわからなくなっているのは、「褒められる」立場でなくなってきたから、というのもあるのかな。
誰かを褒めると自分の価値が目減りするような気がするのは、私が自分の価値を高く保つことに固執するのは、自信のなさの裏返しでもある。
ありのままの自分には何の価値もない、だから常に努力して、頑張り続けないといけない。
その手を緩めたら、「なにもない」自分が現れるから。
懸命に取り繕ってきたメッキが剥がれてしまうから。
けれどいつまでも、その自分ではいられないのだ。
ありのままの自己、そのままの他者。
カッコつけて「見せる」ための自分を演じて疲労困憊する毎日を終えたなら。
そこには何が見えるのかな。
そこまであと、何年、何十年かかるだろう。
山を登るときには楽しむ余裕がなかった景色を、下るときにはゆっくり眺められる。
高みから徐々に下りていくその道程で、私は見逃していたものを見たい。
今の私には、目の前に差し出されなければ見えないものに、その時は気付けるように。
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