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タイガース非公式サイト2代目

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2024年05月21日
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背番号22(その2)

背番号22の第2回目です

今回は昭和20年代半ばから30年代半ばまでのあいだに背番号「22」を着けた3選手を紹介するよ すでに3人ともお亡くなりになってます

3人の中にはタイガース史で絶対外せない大物2人がふくまれてます 一人目はダイナマイト打線の一員として活躍し監督も2回就任したことがある後藤次男さん

後藤さんは背番号「8」や「12」で掲載済みで3度目の登場になるわね でも皆さんによく知ってもらいたいのでコピペでわるいけど再々掲載しました 読んでね

次の田宮謙次郎さんも背番号「6」で紹介済み でもこの人も大物だからコピペで再掲載します もう一度「28」でも登場するんだけどね

3人目は初登場の人ね この人はよほどのタイガース研究家でないとわかんないとおもう 2代目もまったく知らなかったよ

後藤次男 外野手(再々掲)

山口が退団したあと背番号8は後藤次男が引き継いでいる。ダイナマイト打線の一翼を担い、のちにタイガースの監督も務めた愛称「くまさん」だ。

熊本工業時代に3度の甲子園を経験、選抜ベスト4の実績がある。卒業後は法政大学に進学し4番打者として活躍した。

大学の先輩である若林忠志監督の誘いで昭和23(1948)年に大阪タイガースに入団。ルーキーの年と翌年の2年間は背番号「8」。1950(昭和25)年から2年間が背番号「22」。その後1952(昭和27)年から引退する1957(昭和32)年までは「12」を着けた。

ルーキーイヤーの1948年、後藤はセカンドで全140試合に出場している。511打数129安打36打点5本塁打で打率.252というまずまずの成績を残しているし、俊足を生かした27盗塁も光った。

後藤は好きOBとしてチームにかかわり続けた

2年目の1949(昭和24)年から3年間は、10本、15本、13本と二けた本塁打を記録、入団時から5年連続100安打、2年目から4年連続3割以上も記録しており、ダイナマイト打線の一員として活躍しているが、記録を見る限り強打者というより巧打者の印象だ。

また、2リーグに分裂した1950(昭和25)年には多くの選手がパリーグに移る中、タイガースに残った。

しかし、1953(昭和28)年、まだ29歳だったが、鎖骨を折る大けがを負い、完治しないまま試合に出たため何度も折れて手術を受ける。この無理が祟って、翌1954(昭和29)年は試合に出ることができなかった。

ケガの影響は深刻で、1955(昭和30)年以降も影響を残しており ケガをする前のようなプレーができなくなる。出場試合数も毎年100試合未満になってしまった。

通算成績は949試合3260打数923安打355打点51本塁打113盗塁160三振で、打率.283は立派だ。

ダイナマイト打線 左から2人目が後藤

1957(昭和32)年に限界を感じて現役引退。翌年からは一軍打撃コーチ~二軍監督~一軍ヘッドコーチを経て1969(昭和44)年に一軍監督に就任している。一軍打撃コーチ時代は藤本勝巳、遠井吾郎、藤田平などを指導し成長させた功績がある。

 1968昭和43)年をもって7年間監督を務めていた藤本定義が退任し、次期監督が決まらないままタイガースは秋季キャプに入る。11月19日、当人不在のまま阪神電鉄本社で記者会見が開かれ、ヘッドコーチ後藤の監督昇格が発表された。簡単に後任監督の調整ができない状況で時間は経過していくばかり。やむを得ず後藤に白羽の矢が立ってしまったというのが実情らしい。

 1969(昭和44)年のシーズンは、江夏豊が成長期にあり、後藤の母校法政大から田淵幸一が入団、前年好結果を残したウィリー・カークランドを4番に据えて5月までは首位を走った。しかし6月に入って打線が湿りだし巨人に抜かれると、ジリジリと差を広げられていき、6.5ゲーム差の2位に終わっている。

 後藤は「自分はあくまで繋ぎの監督」と認識していた。翌1970(昭和45)年には村山実が現役監督に就任することで1年で交代している。

 1978(昭和53)年には、史上最低勝率を記録した吉田監督が退任。選手と首脳陣もギクシャクした状態で監督の引き受け手がない中で2度目の監督として引っ張り出された。

 就任の会見ではチームのキャッチフレーズを聞かれ「みんな仲良くボチボチと」、目指す野球はの問いには「お祭り野球」と答え、これにはさすがのタイガースファンも拍子抜けとなった。

 安芸キャンプで新旧主砲に囲まれて

   シーズンに入ると選手にやる気は見られず、後藤監督も注文をつけないというダラダラ野球が展開されるなか、ブリーデン、ラインバック、掛布など主力の故障も相次ぎ最下位を独走することになる。

 前年、吉田監督は4位で勝率.466だったが、これがタイガースの史上最低勝率だったことで退任している。しかし、後藤監督はこれを1年で大きく更新し、41勝80敗9分の.339という悲惨な勝率で終わり1年で退任させられており、まさに「貧乏くじ」だった。

 ちなみに後藤は、引退翌年の1958(昭和33)年のコーチ就任の年は現役最後の「12」のまま、1959(昭和34)年は「60」、1966(昭和41)年から第1期監督も含め4年間が「55」、第2期監督時代は「71」を着けた。

 入団からタイガース一筋。いつも後輩の選手を見つめる視線は暖かかった。過渡期には汚れ役と分かっていてもタイガースへの思いから監督を引き受けるなど「タイガース愛」にあふれた人で誰からも愛されていた。その功績は大きくタイガース史に刻まれている。

2016(平成28)年、92歳で逝去されている。

田宮謙次郎 投手・外野手(再掲)

 田宮は茨城県下館高校から日大を経て1949(昭和24)年に大阪タイガースへ入団している。

中学時代は柔道に熱心で足腰が鍛えられており、高校に入ると真剣に野球に取り組むようになって投手として目を引く存在になる。

日大に入ると左投げ左打ちで投手と外野手を兼任し、打っては首位打者を獲得、投げてはノーヒットノーランも達成した万能選手だった。本当に戦前から戦後のこの時期は二刀流が多い。

田宮の能力を高く評価したタイガースは、大学を中退してのプロ入りを熱心に勧めた結果、田宮も決断し獲得に成功している。

 タイガースでの1年目の背番号は「28」。翌年の1950(昭和25)年から2年間が「6」、1952(昭和27)年から1958(昭和33)年には「22」を着けている。

 1年目の田宮は投手として34試合に登板しており、11勝7敗159回2/3を投げて防御率4.56という成績だった。ほかに野手として6試合に出ており、登板した試合を含め打撃成績は66打数12安打6打点1本塁打、打率.182である。

 その後プロ入り4年目までは投手を続けたが肩を痛めていたため、1950(昭和25)年が1勝2敗、1951(昭和26)年は0勝1敗、1952(昭和27)年も0勝2敗に終わって投手を断念し、松木監督の奨めでシーズン途中から外野手に転向することになった。

この1952年の打撃成績は94試合190打数47安打34打点7本塁打で打率.247だったが、野手としてやっていける足掛かりになった。

写真は左から大津淳、吉田義男、田宮謙次郎

 1954(昭和29)年、125試合に出場して初めて3割を打ち、実力が開花する。この年を含めて1958(昭和33)年までの5年間はセンターのレギュラーとして活躍、そのうち4シーズンで3割を越えている。

タイガースでの最後の年となる1958年には打率.320で、タイガースでは戦後初の首位打者に輝いた。

 ホームランはシーズン最高でも12本という中距離打者だったが、確実にミートする技術があり、二塁打や三塁打が多い。首位打者になった年は勝負を嫌がられ、リーグ最多の20回も敬遠で歩かされている。

また当時のタイガースでは吉田義男に次ぐ俊足で、1953(昭和28)年を皮切りに8シーズン連続二けた盗塁を記録しており、その中でも1957(昭和32)年には自己最多の37盗塁を決めている。

全くタイプは違っていたが藤村引退のあと4年間4番打者を担った。藤村という長距離打者の代わりがいなかったためであり、本来なら1番や3番に適していた打者だろう。

左から小山正明、田宮謙次郎、江藤慎一

昭和33年オフ、A級10年選手制度の「ボーナス受給権」を行使しようとしたが金額的に球団と折り合わず決裂すると、やむなく「自由移籍権」を行使して大毎オリオンズへ移籍する道を選んだ。

オリオンズでは5年間プレーしたが すべて130試合前後に出場しており、そのうち3シーズンで打率3割を記録。好打者ぶりは健在だった。

現役最後となった1963(昭和38)年も132試合に出場して103安打で打率.278の成績を残したが、本堂監督の起用法によってスタメン出場が減り規定打席に届かなかったことを不満としてきっぱり現役引退している。
 通算成績は1488試合4807打数1427安打597打点106本塁打190盗塁416四球467三振、打率.297であり、特にレギュラーになった1954年から引退までの10シーズンのうち7シーズンで3割をマークしている。走攻守そろった一流の選手だった。

引退後、1988(昭和63)年には第2期村山実監督の1年目にヘッドコーチに就任してタイガースに復帰したが、シーズン中に村山監督と意見が合わなくなり6月に退任し、そのままフロント入りした。

OB会長を18年間つとめ、監督や指導者に厳しい意見を言いながら、選手たちを応援していた。2002(平成14)年には野球殿堂入りしている。

2010(平成22)年5月5日、82歳で逝去。

古川啓三 捕手

岡山県倉敷市出身。倉敷老松高校に進むが全国大会出場の経験はない。卒業後は法政大学へ進学する。目立った成績はないが、東京6大学リーグのベストナインに一度選ばれたことがある。

その後社会人の川崎コロムビアに進み、1957(昭和32)年~1958(昭和33)年の2年連続で都市対抗本線に出場して捕手としての評価が高まった。

1959(昭和34)年にタイガースへ入団し、オリオンズへ移籍した田宮が着けていた背番号「22」を継承。

 即戦力捕手として期待された1年目は14試合14打数4安打、打率.286と冴えず、2年目の1960(昭和35)年は出場わずか4試合になって一軍戦力とは程遠い存在になる。

 3年目の1961(昭和36)年も10試合14打数4安打に終わって現役を続けることができないと引退する。

 1962(昭和37)年は肩書こそ「1軍ピッチングコーチ」だったが、ひたすらピッチャーのボールを受け、その調子を監督に報告するブルペン捕手の役目を担う。

 1963(昭和38)年から1966(昭和41)年までは2軍のバッテリーコーチの肩書で事実上ブルペン捕手を務めていたが、これにも体力の限界を感じて辞職している。

 1984年10月6日、54歳の若さで亡くなった。

まとめ

後藤さんや田宮さんはオールドファン(80歳以上かな)には忘れられない選手なのよ 実際にタイガース史を語るときには必ず登場する人物ね

逆に古川さんは歴史に埋もれた選手という感じかなあ おなじプロの飯を食ったと言っても 大スターもいれば1度も公式戦に出ないうちに引退する人もあるわけよ

古川さんは明らかにプロとしては力不足だったようね でも試合に出たことがあるだけでもましなのかもしれないよ 写真は見つからなかったなあ

背番号22の3へ続く



 


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Last updated  2024年05月21日 11時58分37秒
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