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2024年06月11日
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背番号22(その5)

背番号22の第5回目です

前回は田淵幸一さんだけの紹介だったよね やっぱり「3代目ミスタータイガース」とまで呼ばれた人だったからエピソードも豊富ね 

ホントはもっと紹介したいことはあるんだけど長くなってしまうのでカットしたことも多いのよ

そして今回なんだけど 大物だった田淵さんのあと 簡単に背番号を受けつぐ人はなくて1979(昭和54)年から1982(昭和57)年までの4年間は誰も付けていないの

そして1983(昭和58)年 ドラフト1位で入った捕手が付けることになるんだけど 皆さん誰だかお分かりよね?

木戸克彦 捕手

大阪府堺市出身。中学校時代から一貫して捕手で高校は当時の強豪PL学園に進んでいる。3年時には西田真二(のち広島カープ)とバッテリーを組み春夏連続で甲子園に出場している。選抜はベスト8に終わるが、夏は最強と言われた中京高校と準決勝で当たると4点差を9回に追いついて延長12回サヨナラ。高知商との決勝でも9回2点差を逆転してサヨナラ勝ちを収めて優勝。この奇跡的勝利の連続によって「逆転のPL」と語り継がれている。


​ 
卒業後は法政大に進んでいるが、1年上には1985(昭和60)年に日本一を分かち合うことになる池田親興がいた。大学では最初外野手に転向したが、2年時には捕手に戻っており5季連続でベストナイン、最後は主将を務めるなど大学ナンバーワン捕手へ成長する。リーグ優勝3回、通算打撃成績は76試合出場で274打数84安打33打点5本塁打、打率.307。


 1982(昭和57)年秋のドラフト会議でタイガースが1位指名。田淵の移籍で4年間「空位」になっていた背番号「22」が与えられる。

 ルーキーとして臨んだ1983年だったが木戸はわずか8試合しか1軍での出場がなかった。背番号「22」を受け継いだ重圧、大学での輝かしい実績からのファンの過度な期待。それらに応えようとしてキャンプでのオーバーワークが逆効果になり腰を痛めてしまったからだ。

 木戸は翌1984(昭和59)年も伸び悩んでいる。1軍では前年西武ライオンズから移籍してきた山川猛が114試合に出ておりほぼ正捕手で、木戸はわずか26試合28打席にしか立てなかった。

 しかしシーズンが終わって安藤監督が退任し、吉田義男監督が就任すると「来シーズンは木戸を正捕手に育てる」という方針になったようだ。


 1985(昭和60)年のシーズンが始まると、前年ブレイクした山川を退け開幕から木戸がマスクをかぶった。ご存じの通りリーグ優勝から日本一に駆け上がったあのシーズンだ。

 木戸は優勝を争う中で急速に成長していく。103試合に出場して守備やリードが評価されてダイヤモンドグラブ(現ゴールドグラブ)賞を受賞している。また規定打席には届かなかったがホームランも生涯唯一の二けたとなる13本を記録してバッティングでも優勝に貢献した。


 1985年に挙げた実績を踏み台にしてレギュラーを維持していけるかと思えたが現実は厳しく、1つしかないポジションだけに常にライバルとの争いは続き、1980年代は嶋田宗彦、1990年代になると山田勝彦や関川浩一とレギュラーの座を競い合っている。

 唯一規定打席に到達したのは1988(昭和63)年で、121試合に出場して408打席に立った。351打数89安打も自己最高を記録したが、この年をピークに下降線をたどっていく。

 1991(平成3)年以降は3桁の出場はなくなり、どちらかというとブルペンで若手投手の球を受けアドバイスを送ることが多い立ち位置になっていく。1992(平成4)年には不振でファーム行き寸前だった湯船敏朗を叱咤激励しノーヒットノーランを達成させている。


​ 1996(平成8)年に現役引退。そのままチームに残り、バッテリーコーチ、ブルペンコーチ、2軍監督などを歴任した。


 
通算成績は965試合2192打数505安打226打点51本塁打、打率.230というもので打撃は平凡だった。それでも背番号「22」の重圧と闘いながら現役14年間を通して背負い続けたのは素晴らしいと言えるだろう。

 2012(平成24)年からはフロント入りし中村GMの補佐などを務めたのち、球団本部部長(プロスカウト担当)として2024(令和6)年もチームを支えている。

加治屋さんの入団にもかかわってたんだね!

関川浩一 捕手・外野手(再掲)

関川については背番号21-5ですでに詳しく紹介している。

東京都調布市の出身。神奈川の桐蔭学園から駒澤大学を経て1991(平成3)年に入団し、6年間背番号「21」を着ける。


木戸の引退した翌1997(平成9)年に背番号「22」を受け継いだが、わずか1年で中日ドラゴンズにトレードで移籍している。

詳しくは背番号21-5を参照してほしい。タイガース背番号史 21-5 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)

中谷仁 捕手

和歌山県和歌山市出身。智辯和歌山高時代は高校生ナンバーワン捕手として全国に知られる存在になる。2年時の1996(平成8)年には春選抜大会で優勝。キャプテンとなった3年時の1997(平成9)年には夏の選手権で優勝を飾っている。


 1997年秋のドラフト会議で1位指名されるが、同年の目玉は慶應大学の高橋由伸。タイガースも獲得を目指していたが、高橋が在京セリーグ(巨人またはヤクルト)を表明したことで断念し、次の候補として浮上したのが中谷だった。

中谷はトレードで移籍する関川の着けていた「22」を引き継ぐわけだが、トレード相手に矢野輝明が入っていることに両親が反発する。「日本一の捕手に育てると言っておきながら、トレードで捕手を獲るのは矛盾しているのではないか?」ということで入団交渉は長引いたが無事タイガースの一員になる。

1年目の1998(平成10)年はウェスタンで22試合に出場しており、翌1999(平成11)年には春先に井川慶を連続完投勝利に導いてブレイクへのきっかけを作るなど、捕手として順調に育っていくかに見えた。


 ところがその1999年5月、浜辺でバーベキュー(シーズン中のこの時期にバーベキューというのも変な話だが)をしているとき、中込伸投手が投げてよこした携帯電話が左眼球を直撃し、あわや失明という重症を負ってしまう。

翌2000(平成12)年にはボールを受けるのに支障がない程度まで視力は回復したものの、ウェスタンでは39試合で打率.190と打撃に影響しているように見えた。

2001(平成13)年にはウェスタン64試合に出るまでになったが、打率は.171と低調だった。

2002(平成14)年は背番号を「66」に変更して臨み、星野新監督のもと初めて1軍に呼ばれて17試合に出場している。8月29日の中日戦では初安打初打点を記録するが、タイガース在籍で打った唯一のヒットとなった。


 2003(平成15)年から2005(平成17)年までの3年間は1軍へ上がる機会もなく、2005年オフに金銭トレードで楽天へ移籍する。

楽天には2006(平成18)年から6年間在籍したが、2009(平成21)年の55試合が最高で、あとはほとんど1軍の試合には出れなかった。

2011(平成23)年オフに戦力外通告を受け自由契約となったが現役続行を希望して12球団トライアウトに参加、巨人との契約にこぎつける。

2012(平成24)年、巨人では5試合の出場しかないが、4月15日から8月初頭まで出場選手登録されて一軍に帯同し、若手投手の球を受けて育成の役割を務めている。

2012年をもって引退、プロ通算成績は111試合173打数28安打17打点4本塁打、打率.162だった。

2017(平成29)年には母校智辯和歌山にもどり、2018(平成30)年に硬式野球部監督に就任。


2021(令和3)年の夏の選手権で兄弟校の奈良智弁学園との決勝戦に勝利し優勝を飾っている。高校生時代に選手として全国大会の優勝を経験し、卒業後に母校の監督として同じ大会で再び優勝した事例は8人目である。

まとめ

田淵さんのあとを受けた木戸さんにとって背番号「22」ってどういうものだったんだろう 4年間の空白ののちだけに余計にプレッシャーがあったんじゃないかな

でもあの伝説的な優勝の年に主力メンバーの一人として活躍、貢献できたのはすごい財産だよ しかもそこで「22」を着けてたんだし 十分誇っていいとおもうな!

関川さんについては背番号21-5を参照してね

中谷さんはケガがすべてって感じがする もしあれが無かったら人生はどう変わってたんだろう プロで一流選手になってたら 逆に母校へ戻って高校野球の監督という道には進んでなかったかもしれないし・・やっぱり人生って流れに任せてその中で努力するしかないのかな 

このケガについては山村宏樹投手にも関係するから読んでない人はタイガース背番号史 21-6 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)の方も参考に見てくださいね

今回の3人はすべて捕手 やっぱり田淵さんがそういう流れを作ったのね

でも次の人から様子が変わっていくんだよ

背番号22の6へ続く




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Last updated  2024年06月11日 22時22分47秒
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