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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2017.11.30
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カテゴリ:正岡子規

 
   鶯に鍋のぞかせじ藥喰(明治26)
   藥喰す人の心の老いにけり(明治27)
   戸を叩く音は狸か藥喰(明治28)
   われ病んで筑波の雉の藥喰(明治29)
   藥喰の鍋氷りつく朝哉(明治30)
   血にかわく人の心やくすり喰(明治33)
   貧血の君にさそはれくすり喰(明治33)
   利目あらん利目なからん藥喰(明治34)
   蘭學の書生なりけり藥喰(明治34)
 
 正岡子規は、明治35年7月7日の『病牀六尺』で、猟や釣りについて書いています。漁や釣りを殺生として忌み嫌うのはどうかと子規はいいます。宗教家の禁忌はあまりにも行き過ぎではないかと嘆じているのです。こうした獣や魚の殺生よりも、人間の生き方の方が残酷なこともある。人間同士の交際の方が、不愉快なことが多くて、はるかに罪深いと子規は言うのです。ただし、最後の「俗人の殺生などは、むしろ害の少い楽しみである」というのは聞き捨てなりませんが……。
 

 
○鉄砲は嫌いであるが、猟はすきである。魚釣りなどは子供の時からすきで、今でもどうかして釣りに行くことが出来たら、どんなに愉快であろうかと思う。それを世の中の坊さんたちが殺生は残酷だとか無慈悲だとか言って、一概に悪くいうのはどういうものであらうか。勿論坊さんの身分として殺生戒を保っているのは誠に殊勝なことでそれはさもあるべきことと思うけれど、俗人に向って魚釣りをさえ禁じさせようとするのは、余り備わるを求め過ぐるわけではあるまいか。魚を釣るということは多少残酷なこととしても、魚を釣っておる間はほかに何らの邪念だも貯えていない所が子供らしくて愛すべき処である。その上に我々の習慣上魚を釣ることはさまで残酷と感ぜぬ。これよりも残酷なこと、これよりも邪気の多いことは世の中にどれだけあるかわからん。鳥獣魚類のことはさて置き、同じ仲間の人間に向ってさえ、随分残酷な仕打ちをする者は決して少くない。殺生戒などと殊勝にやってる坊さんたちの中にも、その同胞に対する仕打ちに多少の残酷な事も不深切(=不親切)なこともやる人が必ずあるであろうと思う。これというほどのひどいことでなくても人間同士の交際の上にごく些細な欠点があっても極めて不愉快に感ぜられるもので、それは生きた魚を殺すよりも遥かに罪の深いような思いがする。余は俗人の殺生などは、むしろ害の少い楽しみであると思うている。(七月六日)
 
 肉食の歴史について、少し書きます。
 天武4(676)年4月17日、天武天皇により「牛、馬、犬、猿、鶏の宍(=肉)を食うことなかれ」という詔が出されました。しかし、これは他の肉食を禁じたものではありませんでした。牛や馬はも農耕などの苦役に活用され、農耕や運搬にかけがえのない動物です。犬は門番として家を守り、鶏は刻を告げる鳥として飼育されていました。猿は飼われてはいませんが、人間に似ている動物として、殺生を禁じたのでした。
 後の天平13(741)年2月に出された詔には「馬牛は人に代わりて勤しみ、労めて人を養う。ここに因りて先に明けき制有りて、屠り殺すことを許さず」とあり、天武天皇の詔は、農耕に寄与する家畜を保護し、人民の農業に関する労働を推進したものであることがわかります。また、こうした詔が出されたということは、牛、馬、犬、猿、鶏が一般に食べられていたことを示しています。
 仏教を篤く信奉した聖武天皇は、天平17(745)年10月と天平勝宝4(752)年正月の詔で一切の肉食を禁じました。天平17年は東大寺の大仏建立を発願した時期で、天平勝宝4年は大仏開眼という、国家にとって大切な行事を控えていました。仏教による殺生の戒めによって国家鎮護を願い、一切の肉食を禁じたのでしょう。
 詔の発布以後、これらの肉を公に食べることはできなくなりましたが、日本人は肉類を食べてこなかったわけではありません。公然と食べなかっただけで、庶民の間では肉食が行われていたようでの奈良時代70年の間に、狩猟や肉食を制限する布令が10回も出されていることからも、牛、馬、犬、猿、鶏を食べる人がいたのです。
 
 時代は移り、江戸時代の文化・文政の頃(1804〜29)になると、江戸には獣店(けものだな)が増えてきました。鎖国が続いていたとはいえ、オランダとの通商は残されていて、蘭学者たちの間で密かに行われていた肉食が次第に広まり、武士階級にまで浸透してきます。
 獣店は「ももんじ屋」と呼ばれていました。「ももんじ」とは化け物のことで、店の前には「山くじら」と書かれた看板を出していました。安藤広重の『江戸名所百景』の「びくにはし雪中」に、その風景が描かれています。肉食は「薬喰」と呼ばれ、病人の養生や健康回復、滋養のための肉食でしたが、一度口にした肉の味が忘れられなくなった人もいました。
 江戸時代末期の嘉永六(1853)年に出版された『守貞謾稿』には「いま獣肉を割いたり煮たりする店で、招牌の行灯に『山鯨』と記すのが、三都に共通して見られる。いまや好んで鳥獣を食う世となったが、これは天保の頃から、葦簾張りの店で煮売りをするようになってからである。三都とも肉に葱を加えて鍋で煮る方法は共通である」と記されています。
横浜開港の前から、あちこちで豚を飼っていたが、開港した後はますます多くなり、専門店や一般の家でも、豚肉を売ることが盛んになった。開港後は『鳥鍋、豚鍋』と記した看板を出し、鍋焼きにして売る店も方々に出てきた。三都ともに獣肉を売る店では、獣肉の異名として『山鯨』と記す。また猪の肉を牡丹、鹿の肉を紅葉の異名で呼ぶが、もし虎の肉があったら竹と言うのか」ともあります。時代が大きく変革しようとする維新前夜、異国の風習でもある肉食が次第に普及しはじめました。





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最終更新日  2017.11.30 00:06:17
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