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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2018.02.14
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カテゴリ:夏目漱石

 
 油っぽい食べもの好きな漱石は、もちろん鰻が大好物です。その為か、小説にも鰻屋をたくさん登場させています。
『彼岸過迄』にはも二つの鰻屋が出てきます。柴又の「川甚」と、浅草の「奴(やっ古)」です。
「川甚」は、寛政年間(1789〜1801)の創業で、帝釈天の裏手、江戸川の土手ぎわにあり、江戸川の「川」と、初代・甚兵衛の「甚」をとって「川甚」としました。当時は、今と違って川の水が綺麗だったので、建物に川の水を引き込んで生け簀とし、鰻や鯉を注文に応じてたも網ですくい上げて調理したと言います。
「やっ古」も、寛政年間の創業で、元々の店名は「奴草加」と言いました。旗本の中でも血の気の多い輩が集まった「旗本奴」に対抗して、町人たちが正義の火を灯した「町奴」。その流れを汲んだ「町奴」の後継者たちが、この店の鰻を好んだことから、この名がつけられました。「やっ古」は、『虞美人草』にも登場します。
※鰻好きの漱石は​こちら
※鰻の名店は​こちら
 
  
 この日彼らは両国から汽車に乗って鴻の台の下まで行って降りた。それから美くしい広い河に沿って土堤の上をのそのそ歩いた。敬太郎は久しぶりに晴々した好い気分になって、水だの岡だの帆かけ船だのを見廻した。須永も景色だけは賞めたが、まだこんな吹き晴らしの土堤などを歩く季節じゃないと云って、寒いのに伴れ出した敬太郎を恨んだ。早く歩けば暖たかくなると出張した敬太郎はさっさと歩き始めた。須永は呆れたような顔をして跟いて来た。二人は柴又の帝釈天の傍まで来て、川甚という家へ這入はいって飯を食った。そこで誂らえた鰻の蒲焼が甘たるくて食えないと云って、須永はまた苦い顔をした。先刻さっきから二人の気分が熟しないので、しんみりした話をする余地が出て来ないのを苦しがっていた敬太郎は、この時須永に「江戸っ子は贅沢なものだね。細君を貰うときにもそう贅沢を云うかね」と聞いた。(彼岸過迄 須永の話2)
 
 彼は久しぶりに下谷の車坂へ出て、あれから東へ真直に、寺の門だの、仏師屋だの、古臭い生薬屋だの、徳川時代のがらくたを埃といっしょに並べた道具屋だのを左右に見ながら、わざと門跡の中を抜けて、奴鰻の角へ出た。(彼岸過迄 停留所16)
 
 家は小野さんが孤堂先生のために周旋したに相違ない。しかし極めて下卑ている。小野さんは心のうちに厭な住居だと思った。どうせ家を持つならばと思った。袖垣(そでがき)に辛夷(こぶし)を添わせて、松苔を葉蘭(はらん)の影に畳む上に、切り立ての手拭(てぬぐい)が春風に揺(ふ)らつくような所に住んで見たい。――藤尾はあの家を貰うとか聞いた。
「御蔭さまで、好い家が手に入りまして……」と誇る事を知らぬ小夜子はいう。本当に好い家と心得ているなら情けない。ある人に奴鰻(やっこうなぎ)を奢ったら、御蔭様で始めて旨い鰻を食べましてと礼をいった。奢った男はそれより以来この人を軽蔑したそうである。(虞美人草 8)
 
『吾輩は猫である』で、迷亭が静岡の伯父を誘うのが京橋新富町の「竹葉」です。「竹葉」は慶応2(1866)年の創業で、居留守茶屋から鰻屋へと転身し、味と技術を研鑽して、新富座や歌舞伎座で弁当を入れるようになり、その名を高めました。「竹葉」とは酒のことで、それが転じて弁当のことを言うようになったといいます。
 
「そう、粗忽(そこつ)だから修業をせんといかないと云うのよ、忙中自(おのずか)ら閑(かん)ありという成句(せいく)はあるが、閑中自ら忙ありと云うのは聞いた事がない。なあ苦沙弥さん」
「ええ、どうも聞きませんようで」
「ハハハハそうなっちゃあ敵わない。時に伯父さんどうです。久し振りで東京の鰻でも食っちゃあ。竹葉(ちくよう)でも奢りましょう。これから電車で行くとすぐです」
「鰻も結構だが、今日はこれからすい原へ行く約束があるから、わしはこれで御免を蒙ろう」(吾輩は猫である 9)
 
 小説には登場しませんが、漱石がよく通ったのが神田明神下の「神田川」です。文化2(1805)年の創業で、加賀藩の賄方だった三河屋茂衛門が屋台で鰻屋を始めました。「神田川」の鰻のタレはやや辛めで、小説に登場させた鰻屋は、味醂を効かせたやや甘めです。甘い物好きの漱石ですが、鰻ばかりは辛めのタレが好みだったようです。
 
 この「神田川」は、漱石の日記によく出てきます。
 明治30(1897)年7月下旬には、正岡子規、五百木瓢亭らと神田川でうなぎを食べています。
 明治32(1899)年3月20日、熊本の漱石に宛てた子規の手紙には「二、三日前神田まで出かけ候。今年の初旅に候。あいにく虚子留守にて(細君小児をつれて芝居にでも行きしかと察す)瓢亭宅に到り、蒲焼をくい申候。その節、蒲焼の歴史を考えみるに、貴兄らと神田川にてぱくつきし以来のことと覚え候。うまさは御推察可被下候」とあり、過去に「神田川」を訪れていたことがわかります。
 明治41(1908)年の5月上旬、朝日新聞特派員としてロシアに派遣されることになった二葉亭四迷や上京した大阪朝日新聞の鳥居素川とともに「神田川」で午餐をともにしています。このことは漱石の『長谷川君と余』という随筆に出てきます。
 
 次に逢ったのは君が露西亜(ロシア)へ行くことがほぼ内定した時のことである。大阪の鳥居君が出て来て、長谷川君と余を呼んで午餐(ごさん)を共にした。所は神田川である。旅館に落ち合って、あすこにしよう、ここにしようと評議をしている時に、君はしきりに食い物の話を持ち出した。中華亭とはどう書いたかねと余に聞いた事を覚えている。神田川では、満洲へ旅行した話やら、露西亜人に捕らまって牢へぶち込まれた話をしていた。(長谷川君と余)
 
 明治42(1909)年3月22日には、鳥居素川、弓削田精一らと三人で神田川のうなぎをつついています。





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最終更新日  2018.02.14 00:30:30
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