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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2018.08.04
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カテゴリ:夏目漱石

 
 漱石の食には、味覚が感じられないといったのは、門人の小宮豊隆です。これには漱石自身もわかっていて『文士の生活』には「食物は酒を飲む人のように淡泊な物は私には食えない。私は濃厚な物がいい。支那料理、西洋料理が結構である。日本料理などは食べたいとは思わぬ。もっともこの支那料理、西洋料理も或る食通という人のように、何屋の何で無くてはならぬという程に、味覚が発達してはいない。幼穉(ようち)な味覚で、油っこい物を好くというだけである」といっています。
『草枕』の羊羹のように、官能的な食べ物の描写はあるのですが、それは視覚的な魅力で、食べ物の味を書いたものではありません。
 ところが、胃潰瘍の病状が悪化し、物が食べられなくなると、小説に食べ物が登場し始めます。初期の『吾輩は猫である』に登場する食べ物は、しいたけ、かまぼこ、砂糖のたっぷりかかったパン、牛肉、トチメンボー、カステラ、雑煮、大根おろし、羊羹、山芋、ジャム、卵焼き、蕎麦、蛇飯、スイカ、雁鍋、かつぶし、金平糖と多彩なのですが、どれも話をふくらますための小道具として使われ、美味しそうだとは感じさせてくれません。
 

 
 ところが、修善寺の大患を経験した頃から、漱石の小説に登場する食べ物の話は変わってきます。『門』では、日常に食べられている、ごく普通の飯や茶漬、饅頭などが異彩を放ちます。極めて日常的な食が非日常のシチュエーションと対比され、当たり前の食事が魅力的に感じられるようになっているのです。『彼岸過迄』の西洋料理は、ほとんど絵画的(あるいは映画的)でありながら、食べて見たいという気にさせてくれます。
 初期の小説では、食べ物は単なる小道具としての役割に過ぎないのですが、修善寺の大患以後の小説に登場する食べ物は、その性格をはっきりさせ、登場人物たちの性格をはっきりさせるために用いられるのです。
 
 妻の鏡子は、『漱石の思い出』で胃病で入院しながらも食べ物を求める漱石を「そのうちにお腹がますますすく様子で、喰ベ物の方も葛湯がオート・ミールに代わり、それから重湯、刺し身などというふうになって参りましたが、重湯はいかにもまずいと申してほとんどいただきませんでした。ところがいよいよお粥ということになって、初めてお粥をいただきました時には、こんなにおいしいものを口にしたことがないとたいへんな喜び方で、お医者さんをわざわざ枕もとへ呼び迎えまして、お粥をたべさせてくれてどうもありがとうとお礼を言っておりました。なにしろお腹がすいてすいてしかたないとみえて、むやみとたべたい様子で、いつもお医者さんと喧嘩です。私がいるとうるさい、また何か言われそうだ。いなけりゃ喧嘩相手がないからそれきりになろう、文句を言われるのがつらいとあって、食事の時になると森成さんが外へ散歩かなんかに逃げ出してしまわれるなどということがよくありました。自分ではねながらいろいろ献立てを頭の中でこさえて、やれ西洋料理だ、今度は鰻だというふうに想像の中で御馳走をならべてみるのだと申しておりました(夏目鏡子 漱石の思い出 39 経過)」と綴っています。
 こうした食べ物への夢想が、漱石の後期の小説に反映されたのでした。
 
 漱石の感覚のうちで味覚や聴覚は、あまり発達していなかったように思う。これは漱石の視覚が発達していて、大抵の事は視覚で弁じてしまう傾向があり、その意味で漱石の感覚の世界は最も多く視覚的な世界からできあがっていたせいであるかとも思われるが、漱石の書いたものを見ても、味覚的、聴覚的、嗅覚的、触覚的な要素はあまり眼に立たないようである。
 書簡集の中には、この間食った雁の味は大変うまかったとか、青豆のスウプはありがたかったとかいう言葉は出てくるが、然し例えば『草枕』の中で、宿屋の膳の、早蕨に紅白に染め抜かれた海老を配したお椀の蓋をとって見て、その色彩の美しさに感歎する所はあっても、その早蕨と海老とを材料としてできあがつているつゆの味は少しも表現されていないのである。のみならず漱石は、画家の立場から言えば、西洋抖理は頗る発達しない料理で、日本の献立は吸物でも口取でも刺身でも頗る綺麗にできあがっている。会席膳を前に置いて、一箸もつけずに、眺めたまま帰ってきても、目の保養という点から言えば、お茶屋へ上がった甲斐は十分あるといっている。それはその通りに違いないが、然しそれは日本料理に視覚的な要素が重んじられているということを指摘しているだけで、それだけでは西洋料理と日本料理との味の優劣は片づかない。然も料理で重大なのは、味である。
 もつとも『草枕』の主人公は画家である。画家の批評が視覚的なものの上に置かれるのは、當然のことといふべきであるかも知れない。然しそれなら『草枕』以外に、漱石の味覚の纖細を示す、何等かの文献があるかと言えば、どうもそれは見当らないようである。『草枕』には玉露の味に触れているところがあるが、然しこれも味というよりも匂いとでもいうべきものに関係している。(小宮豊隆 知られざる漱石 漱石の感覚)





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最終更新日  2018.08.04 00:10:06
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