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カテゴリ:正岡子規
一匙のアイスクリムや蘇る (明治32) 明治32(1889)年8月23日、朝から体調の良かった子規は、人力車で神田猿楽町の高浜虚子宅に向かいました。虚子は、長女の真砂子とともに写真を取りに行ったというので家で待っていると、二人が帰ってきます。 虚子の妻が氷はどうかと声を掛けると、虚子が身体に良くないと断りますので、アイスクリームを子規に薦めます。虚子が心配しましたが、子規は「食べたい」と遠慮なく応えました。根岸では、アイスクリームはなかなか手に入らないので、どうしても食べたかったのでした。 子規は、二杯を平らげます。実に5年、6年ぶりの味であるといいます。 おそらく、子規は日清戦争取材の帰途の船で喀血して入院した神戸須磨の県立神戸病院で食べたものでしょう。その時の記録『病牀日誌』には、明治28(1895)年6月20日にアイスクリームを食べた記録が残っています。 帰宅した子規は、その日の内にお礼の手紙をマーチャンに託して書きました。「マーチャン」とは、「マー坊」と呼んでいた虚子の子供・真砂子のしぐさを愛おしく思った子規は、子供が欲しいと思いました。西洋料理のお礼とともに、「昼飯を早く食べていたので、アイスクリームは二皿しか食べられなかった。昼飯を二度に分けて食べていたら四皿は食べられたかもしれない。昨年に比べて身体が衰弱しているようだ」という意味のことを書いています。 その手紙には「一匙のアイスクリムや甦る」「持ち来るアイスクリムや簞」という二つの句が添えられていました。 また、この日のことは子規の大きな喜びだったらしく、従兄の佐伯政直に「昨日はうれしき事ありて朝来気分うきたち候故、急に思いつきて三時頃より猿楽町に高浜を訪い申候。アイスクリームとか西洋料理とか、根岸にては喰えぬ物を御馳走になりて夜帰り申候」と送っています。 多分「いざり車」の神田行の後であろう。月日不明の書簡(高浜虚子宛)に「今日は西洋料理難有候。生憎昼飯を早くくいしために晩飯に頂戴致候処、二皿より上はたべられ不申候、もし昼飯二度にたべ候わば四皿たべ可申か、昨年に比しても衰弱思い知られ候、アイスクリームは近日の好味早速貧り申侯 一匕のアイスクリムや蘇る 持ち来るアイスクリムや簟」 とある。この二句は三十二年の「俳句稿」に記されておらぬが、アイスクリームの句としては早い方に属する。アイスクリームは片仮名で七字に亘る名称だけに、十七字詩に入れると長過ぎるためか、明治にはあまり作例を見ない。子規も中七字に収める都合上、「アイスクリム」と一字詰めている。併しこのくらいの字余りは、さのみ意に介するに足らぬ。 銀の匙アイスクリームを削りけり 喜舟 という句は大正に入ってからの作であるが、一誦して少しも耳に障らぬからである。(明治の話題 柴田宵曲) 八月廿三日快晴、風少し。朝、歌話を書かんとて歌の本など取り散らし見る。始めて田安宗武の歌を見るに万葉調にして趣向斬新なり。実朝以後歌人無しと忍びしに俄にこの人を得て驚喜雀躍に堪へず。吾は余りの嬉しさに虚子を猿楽町に訪わんと思い立ちぬ。……虚子の家に着く。虚子在らず。今マー坊をつれて写真取りに行きしが最う帰る程なり、と妻なる人の、そこらに出し散らかしたる新聞のとじ込みを片寄せ押しやりつつ言う。……「太陽」を開きて江馬天江という翁の白き長き鬚など見居る内、虚子は子を抱きて、重し重しといいつつ帰り来れり。今日この頃吾の来ることを思いもうけざりけむ驚き喜びて話す。吾も、宗武を得たる嬉しさを述ぶ。妻なる人、氷はいかに、という。そはわろし、と虚子いう。アイスクリームは、という。虚子、それも、といわんとするを打ち消して、食いたし、と吾は無遠慮に言いぬ。誠は日頃此物得たしと思いしかど根岸にては能はざりしなり。二杯を喫す。この味五年ぶりとも六年ぶりとも知らず。ベルモットを飲む。これも十年ぶり位なるべし。マー坊は去年三月生れなり。僅かに一二の語を解す。其他はわけの分らぬ事を父に向いて、意味ありげに喃々と説く。いと可愛し。喜んでベルモットを飲み、尽くれば又コップを父の顔につきつけてねだる。吾も子供一人ほしく思う。(いざり車) マーチャンに托す。 今日は西洋料理難有候。 生憎昼飯を早くくいしために晩飯に頂戴致候処、二皿より上はたべられ不申候。もし昼飯二度にたべ候わば四皿たべ可申か。昨年に比しても衰弱思い知られ候。アイスクリームは近日の好味早速貪り申し候。 ー匙のアイスクリムや甦る 持ち来るアイスクリムや簞 虚子兄 規(明治三十二年八月二十三日 高浜清宛書簡) 昨日はうれしき事ありて朝来気分うきたち候故、急に思いつきて三時頃より猿楽町に高浜を訪い申候。アイスクリームとか西洋料理とか、根岸にては喰えぬ物を御馳走になりて夜帰り申候。車上はかなり苦しけれども、別に故障もなかりしように候。 高浜の子、女にて去年三月生れなるが、いろいろ訳の分らぬ言などいいて可愛らしく候。私も子供一人ほしく候。(明治三十二年八月二十三日 佐伯政直宛) 石井研堂著『明治事物起源』に「アイスクリームの始め」が紹介されています。 『柳川日記』万延元年間三月二十四日、ワシントン政府の幕使迎船の中にて、「又珍しき物あり。氷を色々に染め、物の形を作り、これを出す。味は至って甘く、口中に入るるに忽ち解けて、誠に美味なり。これをアイスクリンという。これを製するには、氷を湯にてやわらかくなし、その後、物の形に入れ、また氷の間へ入れて置く時は、氷の如くになるという。もっとも右の氷をとかしたる時、なま玉子を入れざれば、再び氷らずという」 その製法の記述ははなはだ与太なれども、邦人中、氷クリームを口にせる最初の人として、ここにあぐ。またその名をアイスクリンと訛称す。現今内地の鉄道停車場の呼び売りに間々かくいうことあり。 明治三年、横浜にて、来客にアイスクリームを出したるに、これは結構なりとて、お代わりを望まれしが、その節一人前の価金二分なりしかば、このお代わりに閉口したることありと、父の話なりとて、内田魯庵いえり。当時横浜にては、多少行われおりしなるべし。 成島柳北の『航西日乗』明治五年九月二十二日の条、香港出帆のさい、「晩餐氷羹を喫す太だ美なり」とあるは、アイスクリームをいうなるべし。六年七月十七日、開拓使第一官園へ主上の行幸あり、温室に産するところの茘枝(レイシ)とアイスクリーム氷をたてまつる旨、『報知』第九十七号に見ゆ。アイスクリーム氷の名奇なり。十一年六月八日に、東京新富座の開業式あり、このとき来賓にアイスクリームをすすめしこと、『有喜世新聞」に見ゆ。特筆してあるを見れば、当時なほ珍しかりしならん。 世人、高利貸営業者をアイスと称するは、高利貸氷菓子の音通の略言なり。
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最終更新日
2018.08.03 00:10:12
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