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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2018.08.18
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カテゴリ:夏目漱石

 
 大正4(1915)年7月19日、大谷繞石は、妻とともに漱石山房を訪ねました。繞石は、高浜虚子や河東碧梧桐と京都の三高(現京都大学)の同級で、東大英文科に入学して、正岡子規門下で俳句を学んでいます。卒業してからは、東京の私立中学郁文館や哲学館(後の東洋大学)などを経て金沢の第四高等学校教授となりました。また、イギリスにも留学しており、漱石との共通の友人や留学体験なども多く、気兼ねなく話に花を咲かせるにはぴったりの人物だったのでしょう。
 上京した繞石に、漱石はさまざまな料理の後は、デザートにアイスクリームや水菓子を用意していました。その時の話は、主にどのようにして本を取り寄せるかということで、これは地方に住んでいる者の悩みでもありました。
 その時に、漱石は蓄音機を用意して、妻の心を楽しませました。
 

 
 帰朝後訪ねてから三年半振の上京だのに黙って居るのも失礼、然し小説執筆中に御邪魔するのも失礼と思ったので、御閑の時刻に御壮健な顔を見にだけ参上したいという意味の葉書を出したら、折返して、
 この間は奥さんが御出京の由に聞いていました処、貴方も御供で暑い所へ御出のよし是非御目にかかりたいと思います。然しこの暑いのに日中高輪から牛込まで御出は大変です。どこかへ御供してもいいが世間知らずの私にはいい思いつきもありません。夕方から拙宅で御飯を上げたいが来て下さいませんか。多少は涼しいでしょう。あなたの都合のいい日を知らして下さいませんか。奥さんも一所に入らっしゃれませんか。御返事を待っております。
 という懇篤な手紙が来たのは昨年の七月十七日である。御邪魔してはすまぬとは思ったが、久々に上京して会わずに帰るのもと思って、それでは夕飯の御饗応は御断りします、ほんの一寸顔だけ久々に見に十九日夜参りますと返事はして置いたが、日中諸友を訪ねて夕暮に高輪の親類の家へ帰り、入浴、夕飯を手間取り、電車で江戸川の終点まで、それから俥と思わず時間を過ごして到り着くと、来るか来るかと待っておられたと見えて、俥が門前に停ると、玄関に人影が二つ三つ見えた。入ると先生自ら下駄をつっかけて格子戸の栓を抜きに出られ「能く来てくれました。待ってました」とのこと。例の上り口から右へ縁側、すぐ先生の書斎へ通ると、すっかり待設の準備が出来てるのに少なからず恐縮したことであった。
 先生は短い筒袖の無地の帷子を胸あらわに着なして、どっかと布団の上に坐って、右手を懐にして左手を膝について、
「さあ、奥さん、どうかここへ」
 と布団をすすめ、例の無雑作な挨拶がすんでから、世間話が始まると、用意してあったものと見え、いろんな珍奇な御馳走が膳に盛られて、御令閨が運んで出られた。
「この頃はまた何か書いていますか」
「何も書いちゃおりません」
「閑暇はあるんでしょう」
「そりゃ先生なんかに較べりゃ時間つぶしをしていますが田舎にいちゃ碌な本もありませんしね」
 といい加減なことをうっかり言うと
「買って読んだらいいでしょう」
「仲々買えませんよ。註文しても三月も経たんと来ませんしね」
 と、弁解にならぬ弁解めいたことを、つい言ってしまうと、
「註文したのを待ってて読まんでもいいじゃありませんか。次々に註文すると、次々に来るから……」
 何時も理づめなので相変らずだと思ったが、降参せざるを得ぬ。
「私しゃこりや面白そうな本だと思うと直ぐ註文します。だから着いた小包を聞けて見て、こんな本を註文したのかなと思うことがありますよ」
「地方じゃ一寸註文が億劫でしてね、丸善の雑誌を見てから註文するんですから……」
「丸善にゃほんとに本のことを知ってる者はおりゃしませんよ。彼地の新聞や雑誌の広告を見て註文してやると、宜い本なんだろうと思って序に一二冊註文して、それで最近に到来すべき書なんて広告するんですよ」
 なんて話である。余もその後は、彼地の雑誌の広告によって、好かりそうな本を直接註文することにしたので、丸善へ着本するよりも前に余の方が新刊書を読むようなとともあるが、この時は如何にも御尤と降参してしまった。
 妻のためにと蓄音機が取り寄せてあって、彼地の面白い音楽や歌や色々聴かせて貰った。今閨も令息も同席せられて、アイスクリイムを啜ったり、水菓子をむいたりしつつ、長い間とりとめも無い話をした。あの硝子戸の外には、縁に岐阜提灯が微風にゆらいでおった。近い頃の画はありませんかと訊くと、
「そりゃ御約東があるのじゃありませんか」
 と令閨のいわるるのを、
「なに、構うもんか」
 と三四枚出して見せられ、そのうち、
「これが一番いいようだ」
 と、それへ判を捺して、持って行ってくれと言って渡して下すった。辞したのは十時頃だった。(漱石先生の面影 大谷繞石)
 
 この蓄音機は、漱石が買っていたものでした。門人の内田百閒は、「鬼苑横談」に「漱石の死後、長男の純一君から蓄音器を頂戴した。もらってから15、6年、ゼンマイが2、3度切れただけ」と書いています。この蓄音機はビクター製でしたが、百閒は、サラサーテ自ら奏でる「ツィゴイネルワイゼン」も、この蓄音機で聞いたのでしょうか。





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最終更新日  2018.08.18 00:10:08
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