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カテゴリ:夏目漱石
『満韓ところどころ』で、漱石は橋本左五郎と出会います。 橋本は備前生まれで、漱石とは成立学舎の学友でした。明治17(1884)年頃に、漱石、橋本ら7人ほどで小石川の新福寺の二階を借り、1日おきに大きな鍋に10銭の牛肉で汁をつくり、みんなで食べていました。米は一等米、さやえんどうを煮たり、そら豆を煮た「富貴豆」を買って食べたりした、文字通り同じ釜を食った仲間でした。 橋本は、漱石よりも成績が良く、この年の予備門入学試験では、台数が難しくて困っていた漱石を、橋本がこっそり教えてくれたおかげで、合格しました。ところが、教えた方の橋本は不合格になり、12月の追試験でようやく合格できたのでした。 翌年、幾何学の成績が悪かった漱石は、腹膜炎を患い楽器試験を受けることができず、予備門を留年しました。橋本も落第して、北海道農学校に入学したのでした。農学博士となった橋本は、牛乳過剰生産のために搾乳した牛乳を川に流すという事態に目をつけ、牛乳処理技術を開発しました。そして、遂に乳糖の結晶を均一化することを可能にし、練乳(コンデンスミルク)製造用の真空釜を開発して、練乳製造を企業化を可能にしました。のちに、橋本は、北海道練乳会社の設立にも参画しており、「大学発のベンチャービジネス」の先駆者ともなっています。練乳は、母乳の代わりのミルクとしてとして普及したのです。 漱石は、橋本と予備門以来の再会でした。気心が知れているので、昔通りの交友を温めました。二人は、9月9日から30日まで行動を共にしたのでした。 河村君が帰るや否や股野が案内もなくやって来た。今日は襟の開いた着物を着て、ちゃんと白い襯衣(シャツ)と白い襟をかけているから感心した。股野と少し話しているところへ、また御客があらわれた。ボイの持って来た名刺には東北大学教授橋本左五郎とあったので、おやと思った。 橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の極楽水の傍で御寺の二階を借りていっしょに自炊をしていた事がある。その時は間代を払って、隔日に牛肉を食って、一等米を焚いて、それで月々二円ですんだ。もっとも牛肉は大きな鍋へ汁をいっぱい拵えて、その中に浮かして食った。十銭の牛を七人で食うのだから、こうしなければ食いようがなかったのである。飯は釜から杓って食った。高い二階へ大きな釜を揚げるのは難義であった。余はここで橋本といっしょに予備門へ這入る準備をした。橋本は余よりも英語や数字において先輩であった。入学試験のとき代数がむずかしくって途方に暮れたから、そっと隣席の橋本から教えて貰って、その御蔭でやっと入学した。ところが教えた方の橋本は見事に落第した。入学をした余もすぐ盲腸炎に罹った。これは毎晩寺の門前へ売りに来る汁粉を、規則のごとく毎晩食ったからである。汁粉屋は門前まで来た合図に、きっと団扇(うちわ)をばたばたと鳴らした。そのばたばた云う音を聞くと、どうしても汁粉を食わずにはいられなかった。したがって、余はこの汁粉屋の爺(おやじ)のために盲腸炎にされたと同然である。 その後左五は――当時余等は橋本を呼んで、左五左五と云っていた。実際彼は岡山の農家の生れであった。――左五はその後追試験に及第したにはしたが、するかと思うとまた落第した。そうして、何だ下らないと云って北海道へ行って農学校へ這入ってしまった。それから独逸(ドイツ)へ行った。独逸へ行って、いつまで経たっても帰らない。とうとう五年か六年かいた。つまり留学期限の倍か倍以上も向うで暮した事になる、その費用はどうして拵えたものかとんと分らない。 この橋本が不思議にも余より二三月前に満鉄の依頼に応じて、蒙古の畜産事状を調査に来て、その調査が済んで今大連に帰ったばかりのところへ出っ食わしたのである。顔を見ると、昔から慓悍(ひょうかん)の相があったのだが、その慓悍が今蒙古と新しい関係がついたため、すこぶる活躍している。闥(ドーア)を排して這入って来るや否や、どうだ相変らず頑健かねと聞かざるを得なかったくらいである。(満韓ところどころ 13) 橋本と漱石は旅順でウズラを食べていますが、このことは前に紹介しています。 ※漱石の食べた旅順のウズラはこちら
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最終更新日
2018.08.30 00:10:08
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