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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2018.08.29
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カテゴリ:正岡子規

 
   陽炎やはじけてひぞる塩煎餅(明治27)
   煎餅売る門をやぶ入の過りけり(明治27)
   煎餅をくふて鳴きけり神の鹿(明治28)
   煎餅の日影短し冬の町(明治29)
   煎餅かんで俳句を談す火鉢哉(明治33)
   煎餅賣る根岸の家や福壽草(明治33)
   秋モハヤ塩煎餅ニ澁茶哉(明治34)
 
 子規は煎餅が好きでした。周りも「煎餅党」とみなしていたようで、以前、南方熊楠の子規と煎餅の記憶をご紹介しました。
※子規と熊楠と煎餅党は​こちら
 
 明治22(1889)年11月10日、この年の5月に喀血した子規は、叔父の大原恒徳宛に「今日午後一時より出掛け病院へ到着之節は二時頃なりき、煎餅とお多福の菓子を十銭許り買ひ持ち行き、それは二人で大方平らげ申候。御容体は見掛けには格別相違無御座候」と、以前と変わりなく煎餅を食べ続けている日常を綴っています。
 明治27(1894)年3月上旬、子規は上京してきて子規の家に仮寓している高浜虚子を伴い、日光街道の千住から草加までを目的なしに歩きました。
 この紀行は3月24日の「小日本」に『発句を拾ふの記』として発表されましたが、「煎餅干す日影短し冬の町」という句を残しています。
 
 草加せんべいのルーツには諸説ありますが、日光街道草加松原にあった茶屋で、おせんさんという女性のつくる団子が評判でした。しかし、売れ残った団子を川に捨てていたところを見た侍が、「団子を捨てるとは、なんとももったいない。団子をつぶして天日で乾かして、煎餅として売ってはどうか」と教えられ、それが日光街道の名物になったといわれています。円形の「草加せんべい」は、醤油をなんども塗って焼き上げた煎餅で、風味とともにその香ばしい香りが漂う、煎餅屋が並んだ草加の道は「草加せんべい醤油のかおり」として、かおり風景100選に選ばれています。 
 

 
 漱石や子規、森鷗外が通ったという煎餅屋が団子坂にある「菊見せんべい」です。明治八年創業の老舗で、団子坂の菊人形見物に出かける人たちを目当てにつくられた四角い形の煎餅です。江戸時代末期から明治時代にかけて、団子坂の園芸業者たちは「菊人形」をつくり、大変評判になりました。子規はこの「菊人形」を「自來也も蝦蟇も枯れけり團子坂」という国仕上げています。また、漱石も『三四郎』で広田先生の言葉を借りて、菊人形を褒めています。
「菊人形はいいよ」と今度は広田先生が言いだした。「あれほどに人工的なものはおそらく外国にもないだろう。人工的によくこんなものをこしらえたというところを見ておく必要がある。あれが普通の人間にできていたら、おそらく団子坂へ行く者は一人もあるまい。普通の人間なら、どこの家でも四、五人は必ずいる。団子坂へ出かけるにはあたらない」(三四郎 4)
 
 明治33(1900)年3月30日、長塚節が子規庵を初めて訪ねた時に、栗とともに土産としたのが、茨城のおおぎやがつくった「松皮煎餅」だといいます。節は、幼い頃からこの店の煎餅が好きだったようです。親鸞上人が下津間(しもつま)小島の草庵で茶菓を喜んだという故事から、ケシの実を振って表面は焦がし、裏面は松の皮を模して白く焼き上げた「松皮煎餅」が考案されました。
 
 最後に、子母沢寛の『味覚極楽』に鉄道省事務官の石川毅氏にインタビューした「日本一塩煎餅」というのがありましたので、ここに紹介します。
 
 塩せんべいの食いまわりをはじめてから、もうかれこれ三十年にもなった。九州から北海道とせんべい一枚食うためにずいぶん苦労もしてみたが、結局、これは江戸を中心の関東の物となるようである。京大阪から関西へかけては、見てくれの綺麗なものもあるけれども、要するに子供だまし、第一あの薄黄色いようなあの辺で使う醤油の匂いが承知しない。前歯でガリリッとかんで、舌の上へ運ぶまでに、めためたになってしまうようでは駄目なのである。舌の上でぴりっと醤油の味がして、焼いたこうばしさがそれに加わって、しばらくしているうちに、その醤油がだんだんにあまくなる。そして噛んでいる間にすべてがとけて、舌の上にはただ甘味だけが残るようでなくてはいけない。
 この塩せんぺい、日本国中、埼玉県草加の町が第一。噛んでずいぶん堅い、醤油もロへ入った時はぴりッとする位だが、そのうまみは、ちょっと説明が出来ない。舌の上へざらざらが残るの、噛んでいるうちにめためたになるのということは、決してないのである。近くの粕壁もいい。これは流山あたりの醤油のいい関係も一つだと思っている。草加あたりになると父祖代々せんべいを焼いている家がある。それだから自然町へ伝わった一種の焼き方のコツというようなものがあると見えて、むやみに焼けて焦げになっていたり、丸くあぶくのようにふくれ上ったりはしていない。
 東京の塩せんべいにはろくなものはない。食べた後でみんな.さらざらと舌へのこったり、歯の間へ残ったりする。芝の神明前に「草加せんべい」という看板が出た。草加の人が焼いているとのことだったが、やはり駄目である。むしろの上で干したせんべいは、焼いてもその香がついていていけない。やはり竹あみの上へ一枚一枚吟味したのでなくてはいけない。五反田駅の「吾妻」というせんべい屋は、まず東京では僅かに気を吐いている位のものだ。
 塩せんべいで酒を飲むのはなかなかうまいものである。私はこれで「黒松白鷹」をやったり、「大関」をやったり、「銀釜」といろいろやってみたが、おかしなことに、一番ぴたりとうま味の合うのは広島から来る「宮桜」という割に安い酒である。もう五年ほどこの酒でせんべいを食っている。番茶でやるのもよろしい。しかしよく、煎餅を舌の上へのせて、そのままお茶をのむ人があるが、あれは却ってうまくない。せんべいはせんべいですっかり食べてその残りの味が舌の上で消えるか消えないかという時に、お茶をこくりとやるのである。これも上茶はいけない、味のあっさりした番茶に限る。(子母沢寛 味覚極楽)





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最終更新日  2018.08.29 00:10:10
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