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カテゴリ:正岡子規
明治27年8月に子規が書いた『王子紀行』に「忍川」という料理屋が出てきます。 文章の初めに、「去る十三日のその日もはや七つ下りの頃、鳴雪翁われをおとづれて王子の祭見に行きなんや、いわれ不折子をも伴い、翁に供して上野に至る。余、不折子に向いて戯れて今日の遊び画と俳句と腕を競べんかという、不折子曰く諸と。忍川に夕餉したたむ」とあります。解説すると、七つ下り(現在の午後4時頃)、内藤鳴雪が子規のところに訪ねてきて、王子の祭りを見に行こうと誘いに来ました。そこで、中村不折とともに、「忍川」で夕食を食べて、祭りを見に行こうと考え、ついでに絵も競って遊ぼうということで話がまとまりました。 この「忍川」は、明治35年5月18日掲載の『病牀六尺』にも出てきます。この日は根岸の祭りでしたが、朝から子規の体調が悪く、もしものことを考えて、家族は高浜虚子を呼びよせました。ところが、午後になると子規は体調を取り戻し、食事を取り寄せました。この店も「忍川」でした。取り寄せたのは「豆腐汁」に「木の芽あえ」。この「忍川」は豆腐料理で知られた店でした。 明治23年刊行の『東京百事便』には「前を流るる忍川に因んで名づく。この家は種々の豆腐料理をなし何れも味い宜しく、特に器は気取りたるもの多ければ、一寸よき家なり。朝帰りなどの客を当込なれば夜は一層早寝なり」と書かれています。 ○五月十五日は上根岸三島神社の祭礼であってこの日は毎年の例によって雨が降り出した。しかも豆腐汁木の芽あえの御馳走に一杯の葡萄酒を傾けたのはいつにない愉快であったので、 この祭いつも卯の花くだしにて 鶯も老て根岸の祭かな 修復成る神杉若葉藤の花 引き出だす幣に牡丹の飾り花車 筍に木の芽をあへて祝ひかな 歯が抜けて筍堅く烏賊こはし 不消化な料理を夏の祭かな 氏祭これより根岸蚊の多き(病牀六尺 5月18日) 「忍川」の名は、『東京百事便』に書かれているように、前を流れる忍川にちなんでいます。この忍川は、不忍池の西南から東に流れる川で、源流は巣鴨にありました。巣鴨から本郷を通って流れる藍染川が、本郷の不忍池へそそぎ、上野三橋から隅田川に流入します。「忍川」は、不忍池に溜まった水を流すための水路でした。上野三橋とは、不忍池にかかる三つの橋のことで、上野の山を訪れる人々がその橋を渡っています。 矢田挿雲の『江戸から東京へ』には三橋の由来に咲いて、「(上野の)黒門をでてもすぐに活動やカフェーがあったわけでなく、動坂線の分岐点になっている鳥鍋(雁鍋か?)の角から、向こう側の世界文店の西洋料理店まで、三個の橋が架せられて、真ん中が将軍専用の御橋、左右が人民専用のただの橋、その下をコッソリ流れるのが不忍池から出る忍川。御橋の呼称はいつの間にか固有の権威を失って、三橋とデモクラチックに呼びなさるるに至った」と書いています。 この「忍川」は、人気の店だったようで、夏目漱石の門人・林原耕三は『漱石山房の人々』掲載の昭和45年5月24日に南風大会で行われた講演筆録「南京豆」で「それから広小路の向う側で、今の赤札堂の横町を、溝川沿いにはいった処に、忍ぶ川という庶民的な料理屋がありました。そこへ新関や豊島と一緒によく行って、湯豆腐や鍋料理を食べました。私はその頃はあまり飲めませんでしたが。その跡が今は一平という、同じく大衆向きの、椅子で食う店になっています」と語っています。豆腐料理を中心に居酒屋的なメニューも提供していたようです。 「忍川」といえば、三浦哲郎の芥川賞受賞作「忍ぶ川」をつい連想しがちですが、あのモデルになった店は駒込にあった「思い川」です。残念ながら、7・8年前に閉店してしまいました。
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最終更新日
2018.11.15 00:10:08
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