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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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カテゴリ:子規と漱石
   東菊活いけて置きけり火の国に住みける君の帰り来るがね
 
 晩年の子規は、絵に夢中になりました。
 明治32(1899)年、子規は中村不折にもらった使い残りの絵の具を用い、机の上に活けてある秋海棠を写生しました。その絵がみんなから誉められたため、子規は気分を良くして次々に絵を描くようになります。翌年3月10日「ホトトギス」に掲載された『画』には「僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう」ととまであり、子規の熱中ぶりが伝わってきます。
 
○十年ほど前に、僕は日本画崇拝者で西洋画排斥者であった。その頃、為山(=下村)君と邦画洋画優劣論をやったが、僕はなかなか負けたつもりではなかった。最後に、為山君が日本画の丸い波は海の波でないということを説明し、次に日本画の横顔と西洋画の横顔とを並べ画いてその差違を説明せられた。さすがに強情な僕も全く素人であるだけに、この実地論を聞いて半ば驚き、半ば感心した。ことに日本画の横顔には正面から見たような目が画いてあるのだといわれて、非常に驚いた。けれども形似は絵の巧拙に拘かかわらぬという論でもって、その驚きを打ち消してしもうた。その後、不折君とともに『小日本』におるようになって毎日位顔を合すので、顔を合すと例の画論を始めていた。この時も僕は日本画崇拝であったから、いうことが皆衝突する。僕が富士山は善い山だろうというと、不折君は俗な山だという。松の木は善い木であろうというと、それは俗な木だという。達磨は雅であろうというと、達磨は俗だという。日本の甲冑は美術的であろうというと、西洋の甲冑の方が美術的だという、一々衝突するから、同じ人間の感情がそれほど違うものかと、余り不思議に思ってつくづくと考えた。そのうち、ふと俳句と比較して見てから大に悟る所があった。俳句に富士山を入れると俗な句になりやすい、俳句に松の句もあるけれど、松の句には俗なのが多くて、かえって冬木立の句に雅なのが多い、達磨なんかは俳句に入れると非常に厭味が出来る、これ位のことは前から知っていたのであるけれど、それを画の上に推おし及ぼすことが出来なんだのである。俳句を知らぬ人が富士の句を見ると非常に嬉しがるのと、我々が富士の画を見ると何かなしに喜ぶのと、同じことであるということが分って、始めて眼が明いたような心持であった。けれどもまだ日本画崇拝は変らないので、日本画をけなして西洋画をほめられると、何だか癪に障ってならぬ。そこで日本と西洋との比較を止めて、日本画中の比較評論、西洋画中の比較評論というように別々に話してもろうた。そうすると一日一日と何やら分って行くような気がして、十ヶ月ほどの後には少したしかになったかと思うた。その時、虚心平気に考えて見ると、始めて日本画の短所と西洋画の長所とを知ることが出来た。とうとう為山君や不折君に降参した。その後は西洋画を排斥する人に逢うと、癇癪に障るので大に議論を始める。ついには昔為山君から教えられた通り、日本画の横顔と西洋画の横顔とを画いて「これ見給え、日本画の横顔にはこんな目が画いてある、実際、君、こんな目があるものじゃない」などと大得意にしゃべっておる。その気加減には自分ながら驚く。
○僕は子供の時から手先が不器用であったから、画は好きでありながらそれを画くことは出来なかった。普通に子供の画く大将絵も画けなかった。この頃になって彩色の妙味を悟ったので、彩色絵を画いて見たい、と戯れにいったら、不折君が早速絵具を持って来てくれたのは去年の夏であったろう。けれどもそれも棚にあげたままで忘れていた。秋になって病気もやや薄うすらぐ、今日は心持が善いという日、ふと机の上に活けてある秋海棠を見ていると、何となく絵心が浮んで来たので、急に絵の具を出させて判紙展べて、いきなり秋海棠を写生した。葉の色などには最も窮したが、始めて絵の具を使ったのが嬉しいので、その絵を黙語先生や不折君に見せると非常にほめられた。この大きな葉の色が面白い、なんていうので、窮した処までほめられるような訳で、僕は嬉しくてたまらん。そこでつくづくと考えて見るに、僕のような全く画を知らん者が始めて秋海棠を画いて、それが秋海棠と見えるは写生のお蔭である。虎を画いて成らず、狗に類すなどというのは写生をしないからである。写生でさえやれば、何でも画けぬことはないはずだ、というので忽ち大天狗になって、今度は、自分の左の手に柿を握っている処を写生した。柿は親指と人さし指との間から見えている処で、これを画きあげるのは非常の苦辛であった。そこへ虚子が来たからこの画を得意で見せると、虚子はしきりに見ていたが分らぬ様子である。「それは手に柿を握っておるのだ」と説明して聞かすと、虚子は始めて合点した顔附で「それで分ったが、さっきから馬の肛門のようだと思うて見ていたのだ」というた。
○僕の国に坊主町という淋しい町があって、そこに浅井先生という漢学の先生があった。その先生の処へ本読みに行く一人の子供の十余りなるがあったが、いつでもその家を出がけに、そこの中庭へ庭一ぱいの大きな裸男を画いて置くのが常であった。それとも知らずそのうちの人が外へ出ようとすると、中庭に大男が大物を抱いておる画があるので、度々驚かされる。今日もまた例の画がかいてあったと、そのうちの人が笑いながら話すのを僕が聞いたのも度々であった。その時の幼い滑稽絵師が、今の為山君である。
○僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう。(正岡子規 画)
 最晩年の子規は写生を日課としました。明治35年5月から草花、6月には果物を描き始め、8月になると玩具を描写しています。
 この年の8月7日の『病牀六尺』には、「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生していると、造化の秘密が段々分かって来るような気がする」とあり、8月9日には「ある絵の具とある絵の具を合わせて草花を画く、それでもまだ思うような色が出ないとまた他の絵の具をなすってみる。同じ赤い色でも少しずつの色の違いで趣が違って来る。いろいろに工夫して少しくすんだ赤とか、少し黄色味を帯びた赤とかいうものを出す」と記されています。
 子規は、明治32年10月頃に描いた東菊の画を漱石に贈りました。漱石は『子規の画』で「子規の画は拙くてかつ真面目」と記します。「余は子規の描いた画をたった一枚持っている。亡友の記念(かたみ)だと思って長い間それを袋の中に入れてしまっておいた」で始まる漱石の文は、子規への複雑な思いに満ちています。スラスラと頭から出てくる俳句とは異なり、不自由な体で、病人としては嫌になるほどの時間をかけてあまり上手くない絵を描く子規を、漱石は愛おしく思っているのです。ただ、その絵が拙であるほど、病人で子規の苦労がしのばれるのに、愚直に絵を描く子規。
 厳しいとも思われる漱石の評は、子規の辛さを思いやる逆説に満ちています。
 

 
 余は子規の描いた画をたった一枚持っている。亡友の記念(かたみ)だと思って長い間それを袋の中に入れてしまっておいた。年数の経つに伴れて、ある時はまるで袋の所在を忘れて打ち過ぎることも多かった。近頃ふと思い出して、ああしておいては転宅の際などにどこへ散逸するかも知れないから、今のうちに表具屋へやって懸物にでも仕立てさせようという気が起った。渋紙の袋を引き出して塵を払いて中を検べると、画は元のまま湿っぽく四折に畳んであった。画のほかに、無いと思った子規の手紙も幾通か出て来た。余はそのうちから子規が余に宛てて寄こした最後のものと、それから年月の分らない短いものとを選び出して、その中間に例の画を挟んで、三つを一纏に表装させた。
 画は一輪花瓶に挿した東菊で、図柄としては極めて単簡なものである。傍に「これは萎み掛かけた所と思い玉え。下手いのは病気のせいだと思い玉え。嘘だと思わば肱を突いて描いて見玉え」という註釈が加えてあるところをもって見ると、自分でもそう旨いとは考えていなかったのだろう。子規がこの画を描いた時は、余はもう東京にはいなかった。彼はこの画に、東菊活いけて置きけり火の国に住みける君の帰り来るがねという一首の歌を添えて、熊本まで送って来たのである。
 壁に懸けて眺めて見るといかにも淋しい感じがする。色は花と茎と葉と硝子ガラスの瓶とを合せてわずかに三色しか使ってない。花は開いたのが一輪に蕾が二つだけである。葉の数を勘定して見たら、すべてでやっと九枚あった。それに周囲が白いのと、表装の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持が襲って来てならない。
 子規はこの簡単な草花を描くために、非常な努力を惜しまなかったように見える。わずか三茎の花に、少くとも五六時間の手間をかけて、どこからどこまで丹念に塗り上げている。これほどの骨折は、ただに病中の根気仕事としてよほどの決心を要するのみならず、いかにも無雑作に俳句や歌を作り上げる彼の性情からいっても、明かな矛盾である。思うに画ということに初心な彼は、当時絵画における写生の必要を不折などから聞いて、それを一草一花の上にも実行しようと企てながら、彼が俳句の上ですでに悟入した同一方法を、この方面に向って適用することを忘れたか、または適用する腕がなかったのであろう。
 東菊によって代表された子規の画は、拙くてかつ真面目である。才を呵して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦んでしまったのかと思うと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかといったことがある。余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あのくらい時間と労力を費さなければならなかったかと思うと、何だか正岡の頭と手が、いらざる働きを余儀なくされた観があるところに、隠し切れない拙が溢れていると思うと答えた。馬鹿律義なものに厭味も利いた風もありようはない。そこに重厚な好所があるとすれば、子規の画はまさに働きのない愚直ものの旨さである。けれども一線一画の瞬間作用で、優に始末をつけられべき特長を、とっさに弁ずる手際がないために、やむをえず省略の捷径を棄てて、几帳面な塗抹主義を根気に実行したとすれば、拙の一字はどうしても免れがたい。
 子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉え得た試がない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊のうちに、確かにこの一拙字を認めることのできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画がいかにも淋しい。でき得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償いとしたかった。(夏目漱石 子規の画)





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最終更新日  2019.01.26 18:51:22
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