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カテゴリ:夏目漱石
猫知らず寺に飼われて恋わたる 漱石(明治29) 行く年や猫うづくまる膝の上 漱石(明治31) 恋猫の眼ばかりに痩せにけり 漱石(明治40) 『吾輩は猫である』の猫は、黒猫であると信じられていますが、小説にはこう記されています。 彼は今、吾輩の輪廓をかき上げて顔のあたりを色彩っている。吾輩は自白する。吾輩は猫として決して上乗の出来ではない。背といい毛並といい顔の造作といいあえて他の猫に勝るとは決して思っておらん。しかしいくら不器量の吾輩でも、今吾輩の主人に描き出されつつあるような妙な姿とは、どうしても思われない。第一色が違う。吾輩は波斯(ペルシャ)産の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入りの皮膚を有している。これだけは誰が見ても疑うべからざる事実と思う。しかるに今主人の彩色を見ると、黄でもなければ黒でもない、灰色でもなければ褐色でもない、さればとてこれらを交ぜた色でもない。ただ一種の色であるというよりほかに評し方のない色である。その上不思議なことは眼がない。もっともこれは寝ているところを写生したのだから無理もないが、眼らしい所さえ見えないから盲猫だか寝ている猫だか判然しないのである。(吾輩は猫である 1) 小説には「黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入りの皮膚を有している」とあり、黄色っぽいグレーの中に漆のような黒っぽい斑点があるというのです。黒猫というのは、さし絵の力に負うところが大きく、特に橋口五葉が描いたビールを呑んで最期を迎える猫のイメージが強烈だったせいなのかもしれません。漱石の妻・鏡子の『漱石の思い出』には「全身黒ずんだ灰色の中に虎斑がありまして、一見黒猫に見える」と書かれています。 この六、七月、夏の始めごろかと覚えております。どこからともなく生まれていくらもたたない小猫が家の中に入ってきました。猫嫌いのわたくしはすぐに外へつまみ出すのですが、いくらつまみ出しても、いっかしらんまた家の中に上がってきております。そこで夜雨戸をしめる時なぞは、見つけると因業につかまえては外へ出したものです。しかし翌朝雨戸を繰るが早いか、にゃんといっては入ってきます。それがまたそれほど嫌われているとも知らず、歩いていると後ろから足にじゃれついたり、子供たちが寝ていると、知衝の外から手足をひっかいたりします。そのたびにまた猫がといって泣くのを合い図に幾度残酷につまみ出されたり、放り出されたりしたか知れやしません。がなんとしてもずうずうしいと言おうか、無神経と言おうか、いつの間にやら入り込んで、第一気に食わないのは御飯のお櫃の上にちゃんと上がっておることです。腹が立つやら根気まけがするやらで、私もとうとうだれかに頼んで遠くへ捨ててきてもらおうと思っていると、ある朝のこと、例のとおり泥足のままあがり込んできて、おはちの上にいいぐあいにうずくまっていました。そこへ夏目が出て参りました。 「この猫はどうしたんだい」 と、どこかでもらってでもきたのかと思ったものとみえてたずねます。どういたしまして、こっちは何とかうっちゃらかしてしまいたいのだけれどつきまとわれて困ってる始末、 「なんだか知らないけれども家へ入ってきてしかたがないから、誰かに頼んで捨ててきてもらおうと思っているのです」と申しますと、 「そんなに入って来るんならおいてやったらいいじゃないか」 という同情のある言葉です。ともかく主人のお声がかりなので、そんならというわけで捨てることは見合わせました。それから猫は大いばりで相変わらずおはちの上にのぼったり腹這いになって夏目が朝新聞をよんでいると、のそのそ歩いて行ってはちょうど背中のまん中に乗ってすましております。しかしそうなったからといって悪戯がなおったわけではなし、それどころかいっそうふざけ散らして、子供をひっかいたり、そんなことをしてしかたがないので、時々物尺でどやされたりしておりました。 ところがある時、よく家にくるいつものお婆さんの按摩が参りました。膝にくる猫を抱き上げて子細にしらべ上げておりましたが、突然、 「奥様、この猫は全身足の爪まで黒うございますが、これは珍しい福猫でございますよ。飼っておおきになるときっとお家が繁昌いたします」 とこう申します。この子猫の毛並みというのが、全身黒ずんだ灰色の中に虎斑がありまして、一見黒猫に見えるのですが、そんなことも知りませんので、爪の尖や足の裏までしらべたこともありませんでした。が言われてみればまったくそのとおり、ことに福猫が飛び込んできたと言われてみればなんとなく嬉しくもあるので、せっかくきたのを捨ててはとそこは現金なもので、その日から前のように虐待もしなくなり、悪戯が過ぎると御飯もやらないなんかと因業なことをしたのが、今度はあべこべに私が自分から進んで、女中のやった御飯の上におかかをかけてやったりして、だいぶ待遇が違って参りました。猫のほうではますますいい気になって子供の寝床に入り込んだりして、そのたびに疳持ちの二女の恒子なんかは夜中でも、 「猫が入った、猫が入った」 と火事でもでたようにキイキイ声を立てます。すると夏目が物尺をもって追っかけ歩いたりして、時ならぬ活劇を演じたこともよくありました。 これが有名な初代の猫の少年時代です。(夏目鏡子 漱石の思い出23 「猫」の家) 林順信氏が著した『東京路上細見』の千駄木には「吾輩はどこの猫?」という項があり、モデルになった猫はどこから来たのかが考察されています。『漱石の思い出』には「どこからともなく生まれていくらもたたない小猫が家の中に入ってきました」とあり、この猫がどこからやって来たのか、みじんも考えていないのですが、林順信氏は以下の3案を出しています。 ところで、漱石の『吾輩は猫である』のモデルになった猫はどこの猫だったのか。文京区で出している史跡紹介の本などには、どこからともなくやってきて住みついた子猫のように書かれている。 だが、こんな話もある。 「夏目さんの猫は、うちにいた猫だって、両親から聞いている。小説が発表されてからすっかり有名になって、当時の朝日新聞に写真が載ったんだから、われわれ人間さまより猫の方がえらいんだよ」 こう話していたのは、今は廃業してしまった鰻屋「柏木」の息子マコトちゃん。彼は私の二級上で、小学生のころから折にふれて得意げに同じ話を繰り返していた。だから私もてっきり「柏木」の猫だと思っていたのだが……。 数年前、タウン誌『うえの』に、桂ユキ子さんの思い出話が掲載されていた。その中に次のような個所があった。 「私の育った千駄木町の近くに神田という俥屋があって、そこの猫が、夏目漱石の猫のモデルだと伺ったことがあります」 桂ユキ子さんといえば、明治・大正の政治家、桂太郎の娘さんだ。桂邸は、「猫の家」の向かい側、現在、日本医科大学の図書館になっているところにあった。そういえば、「猫の家」と伸屋の「神田」は二、三軒しか離れていなかった。裏門坂上の「柏木」より近いから、「神田」の猫というのが本当のような気もする。そう思っていたら、つい最近になって、また違う説が出てきた。「一炉庵」のおばあちゃん、恩田むめさんが語る。 「うちがお店を出す前は、ここには伸屋があって、黒猫を飼っていたんだそうです。その黒猫が漱石先生の猫らしいですよ」 ちなみに、むめさんは明治三六(一九〇三)年生まれの八四歳だが、矍鑠としていて、ことばにもよどみがない。 『吾輩は猫である』のモデルは、いったぃ三匹のうちどれだったのだろう。昔はこのあたり一帯に、猫の走りまわる路地もあれば屋根もあり、たくさんの猫がいたから、この三匹の猫もあるいは親子、兄弟だったか、または同一の猫があちこちの家を行き来していたとも考えられる。(林順信 東京路上細見) 林順信氏によれば、夏目家の猫は鰻屋「柏木」、俥屋「神田」、「一炉庵」ができる前にあった俥屋の猫のいずれかで、どれも黒猫の系統だとしています。小説では、近所の黒猫が登場し、前記のように小説ではグレーの猫と書かれているにもかかわらず、みんなは黒猫と信じ切っています。一旦心に焼きついたイメージは、げに恐ろしきものであります。
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最終更新日
2019.06.30 19:00:07
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