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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2019.06.29
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カテゴリ:正岡子規
   おしろいは妹のものよ俗な花(明治31)
   秋海棠妹が好みの小庭哉(明治32)
   母ト二人イモウトヲ待ツ夜寒カナ(明治34)
 
 子規の妹・律は、明治3年10月1日に生まれました。ですから、子規より3歳年下になります。病床の子規に、献身的に尽くしたことは知られていますが、その後の律について、述べられた本はそんなに多くありません。代表的なのが司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』で、もう一冊が北海道の柏艪舎が編纂した『根岸の里と子規と律』という本で、根岸に住んでいた大熊利夫さんという人の自費出版本を編纂し、根岸と大熊氏に関連した方々に寄稿してもらうという珍本です。
 
 司馬氏によると、戸籍上の表記は「リツ」で、子規の書く「律」、『子規言行録』に記載されている「律子」とは異なり、母親の八重は「リーさん」と呼んでいたといいます。
 律は、2度離婚をしています。最初の夫はいとこにあたる陸軍将校・恒吉忠道で、明治18年7月に16歳で結婚しますが、翌年の5月2日に離婚しています。2度目の結婚は松山中学の地理の教師・中堀貞五郎で、明治22年6月13日に結婚し、翌年の4月1日に離縁しました。
 司馬は『ひとびとの跫音』で、「律は兄の異変におどろき『兄が肺病になってしまってどうにもならぬ。看病のために一日おきに実家に帰らせてもらう』と、中学教師の夫にいったといわれる」と書き、従軍記者として日清戦争からの帰国の時としていますが、これでは計算が合いません。子規の初めての喀血時で、実家に帰って静養していた頃とすれば、ややつじつまが合います。
 

 
 明治34年9月20日の『仰臥漫録』で、団子をきっかけに律への怒りを爆発させますが、翌日に「彼は到底配偶者として世に立つ能はざるなり。しかもそのことが原因となりて、彼は終に兄の看病人となりおわれり」「彼が再び嫁して再び戻り、その配偶者として世に立つこと能はざるを証明せしは、暗に兄の看病人となるべき運命を持ちしためにやあらん」と書いています。しかし、子規は「彼は余を失いしときに、果たして余の訓戒を思い出すや否や」と、自分の死後の妹を思いやっています。
※律への怒りの原因は​こちら
 
 明治35(1902)年、子規が亡くなると、律は家督を相続し、翌年に神田一ツ橋にあった共立女子職業学校(現共立女子学園)に入学します。授業は、裁縫が中心でしたが、就寝、国語、算術、家事などを習い、補習科を経て明治39年に卒業した後は学校に残り、事務員を経て和裁の教師となりました。大正10年になると、母の八重を看病するために退職。子規庵で裁縫教室を開きました。
 その頃の思い出が、『根岸の里と子規と律』には綴られています。
 
「明治三十五年九月十九日に子規先生がお亡くなりになる迄、ずっと子規庵で看病にあたっていらっしゃいました。子規先生が亡くなられた翌年、神田の共立女子職業学校の本科へお入りになられましてね。もう三十三歳位になっていましたか。二年間でご卒業になり、明治三十九年にそこの補習科をお出になりました。大変な頑張り屋だったんですよ。成績もよく、すぐその学校の事務に入られました。一、二年たってから共立の裁縫の先生になられて、大正十年まで奉職していらっしゃいました」
「中年から女学校へ行かれるなんて、意志の強い人ですね」
「それもそうですけれど、子規先生がお亡くなりになったんで、生活の道をお立てにならなければならなくなったわけですよ。子規先生がいらっしゃれば、俳旬や歌の方の原稿料もお入りになったでしょうけど、お亡くなりになってからは、お母さんの面倒を一切律さんがみなければならなくなりましたもの」
……
「教室はどの部屋だったんですか」
「子規先生の病室だった六畳のお部屋でした。そのころ、庭には糸瓜がぶら下がっており、山吹などいろいろな草花が、お部屋からよくみえました」
「お稽古日は週何回位あったんですか」
「私は、一週に四回お邪魔しましたが、お月謝などは忘れてしまいました。律さんの教え方というのは、きちんとしていて、それは丁寧でしたよ。縫い目がまっすぐになるまで、いく度もやり直しをさせられましたし、昔はアイロンがなくて、炭火を入れたコテで着物をのすんですが、これもピンとなるまでやらされましたし、地のしもきちょうめんに教えられました。ですから、あわせを一枚仕上げるのに半年近くもかかるんですが、そのおかげで、私などは今でも着くずれしない着物が縫えるんです。今になって、とても有難いことだったと感謝していますの。多分、共立の先生をしていらっしゃる時も、そういう教え方をしていたんだと思いますね」(柏艪舎編 根岸の里と子規と律)
 
 律は、転んでできた怪我の傷がもとで丹毒をもよおし、目白台の東京大学医学部附属病院分院に入院。昭和16年5月24日、72歳で亡くなりました。律の墓は、田端の大龍寺にある子規の墓の左隣にあります。





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最終更新日  2019.06.29 19:00:06
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