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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2019.09.21
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カテゴリ:正岡子規
  海神も恐るる君が船路には灘の波風しずかなるらん(明治19)
  いくさをもいとはぬ君が船路には風ふかばふけ波たたばたて(明治19)
 
 明治35年9月21日、19日に亡くなった子規の葬式が催されました。
 10月10日の「ホトトギス」には、河東碧梧桐の手による葬儀の様子が記されています。
 
 その遺骸は九月二十一日午前九時瀧野川村字田端大龍寺に埋葬致候。大龍寺は高野山派兵言宗末寺にて、道灌山の南麓、田端停車場を去る六七丁の処に有之候。樹も樅槻の大樹築地の後ろに立添い、秋海棠、鶏頭など山門近くに紅を染め、墓に至る道には渋柿の落ち散れるなど、東京近郊にてはさまで醜からぬ一清境にて、鳥語虫声昼尚お閑寂を覚え申候。こは子規君生前の希望にて東京近郊の閑静なる寺に埋葬して貰いたしとの話もありしより、匆卒の際某知己の紹介を得て同寺を選定したる次第に候えども、今一つ子規君の希望、墓地より四方の眺望ある処という条件に欠ぐる処ありしは、その選定方を委托されし予らのもっとも遺憾とする所に有之候。
 戒名を子規居士と申候。かつて戒名などくだくだしき名前は不必要のものなりなど申されし事もあり、かたかた簡単を旨として、同人評議の上、かく定めたる次第に候。墓標には正岡常規墓の五字を記し申候。
 柩は縦四尺、横一尺八寸、深さ一尺(鯨尺)、逝去数日前仰臥せられし容体のままを蔵め、顔面の周囲はかつて賞翫せられし庭園の鶏頭花など摘みもて飾り申候。
 兼てもっとも火葬を厭う旨を語られしこともありて、柩は土葬と致申候。柩を埋むる時、その柩上に、子規正岡常規之墓、慶応三年九月十七日生、明治三十五年九月十九日歿、享年三十六。の三十五字を刻みたる真鍮板を置かれ候。
 葬送の時は会葬者百五十余名。何れも生前の知己もっとも親密なりし人のみにて、多くは徒歩、いと物静かに会葬被致候。すべて質素を旨として、白張二対、野花一対のほか、柩前を飾るもの無之、ただ柩を直に日光にさらすはいかがと、柩の輿に覆いの替りとて屋根を附けたる位に有之候。読誦も終り、親戚の燒香もすみ、会葬者一同もまた親しく燒香せられ候。全く埋葬を終りしは予定の如く、同日午前十一時頃にて候ひき。
 

 
 子規の葬儀や墓についての希望は、明治31年7月1日の河東可全に宛てた手紙と、明治32年9月10日の「ホトトギス」に発表された『墓』、明治34年2月28日の「ホトトギス」発表の『死後』に書かれています。手紙では「あしゃ自分が死んでも石碑などはいらん主義で、石碑立てても字なんか彫らん主義で、字は彫っても長たらしいことなど書くのは大嫌いで、寧ろこんな石ころをころがして置きたいのじゃけれど、万一やむを得んこつで字を彫るなら、別紙の如きもので尽しとると思うて書いてみた。これより上一字増しても余計じゃ」とあり、『墓』には「僕が死んだら道端か原の真中に葬って土饅頭を築いて野茨を植えてもらいたい。石を建てるのはいやだが、やむなくば沢庵石のようなごろごろした白い石を三つか四つかころがして置くばかりにしてもらおう。もしそれもできなければ円形か四角か六角かにきっぱり切った石を建ててもらいたい。彼の自然石という薄っぺらな石に字のたくさん彫ってあるのは大々嫌いだ。石を建てても碑文だの碑銘だのいうは全く御免蒙りたい。句や歌を彫ることは七里ケッパイいやだ。もし名前でも彫るならなるべく字数を少なくして悉く篆字にしてもらいたい。楷書いや。仮名は猶更」と書かれています。『死後』には「土葬はいかにも窮屈であるが、それでは火葬はどうかというと火葬は面白くない。火葬にも種類があるが、煉瓦の煙突の立っておるこの頃の火葬場というものは棺を入れる所に仕切りがあって、その仕切りの中ヘ一つ宛棺を入れて夜になると皆を一緒に蒸燒きにしてしまうのじゃそうな。そんな処へ棺を入れられるのも厭やだが、ことに蒸し燒きにせられると思うと、堪まらぬわけじゃないか。手でも足でも片っぱしから燒いてしまうというなら痛くてもおもい切りがいいが、蒸し燒きと来ては息のつまるような、苦しくても声の出せぬような変な厭やな惑じがある。その上に蒸し燒きなんというのは料理屋の料理みたようで甚だ俗極まっておる」とあり、それで子規は土葬になったようです。
 
 子規の家は禅宗(臨済宗)でしたが、律宗の大龍寺(現真言宗)に埋葬された経緯が、佐藤紅緑の『子規翁終焉後記』に記されています。
 
 寺のことは大体左の如く決定した、翁は平生没後は東京の近傍に葬ってもらいたいといわれておった、それも上野とか向島とか花見の帰りに酒臭い息を石碑に吹きかけ、これは正岡子規の墓だなどとステッキの先で突つかれるような処はイヤだとのことであるので、釈清潭に寺の事を照会したら、二つある、一つは高田の方で禅寺であるが余り奇麗でない。一つは田端の大龍寺で律宗であるが清潔であるとのことで、そこで衆議の結果、兎も角も宗旨は何でも構わぬ。それは翁の余り固執しなかった処である、ただ境内が静閑で墓地の掃除が行き届いておればよい。墓の上にむつきがぶら下がつたりなんかは感心せぬからその点からいうと律宗は能く手が届いて静かにして清潔である。正岡家の宗旨は禅宗であるが、母堂さえ御承諾なら律宗でもよかろうじゃないかとのことで、母堂に右の趣を話したら、どちらでも皆さんの御都合のよいようにとのことで、何は兎もあれ一先ずその寺を見て来ようと碧梧桐と左千夫が出向いたのである。(佐藤紅緑 子規翁終焉後記)
 
 子規の葬式は、午前9時に出棺となりました。百五十余名の会葬者は、根岸の狭い鷺横町を埋めました。日暮里の踏切を渡り、花見寺の横を通って道灌山下の細道を行き、田端の赤紙仁王の前を通って大龍寺へと向かいました。棺が家を出て間もなくの頃、袴を裾短かに穿いた秋山真之が路傍で棺に一礼すると、子規庵に入っていきました。家には母の八重が残っており、お悔やみの言葉を告げたのでしょう。高浜虚子著『正岡子規と秋山参謀』には「子規の葬式の時であった、棺が家を出て間もなく、袴を裾短に穿いて大きなステッキを握られた秋山君が向こうからスタスタ徒歩して来られて、路傍に立どまって棺に一礼された。それから葬式はお寺に行ってしまったが、後で聞くと秋山君は正岡の宅へ行かれて香を捻って帰られたそうだ」とあります。
 
 子規より一年遅く、歩行町に生まれた秋山真之は、柳原極堂著『友人子規』によると「同郷の小学校時代からの親友」とあり、子規と同じ勝山学校、松山中学に進みました。子規が東京へ向かった明治16(1883)年には、真之も兄の好古を頼って上京し、子規と同じ共立学校に学びます。子規が下宿していた藤野家に真之はよく通いました。藤野漸の妻・磯子は『はじめて上京した当時の子規』で「この時分、皆で麻布の久松家のお屋敷へよく出掛けたと覚えていますが、秋山さんーー後の有名な海軍中将ーーがどうしたのか、自分で書いたとかいうわいせつな春画を帽子の中へはさんでいたのだそうですが、それが大風の日で帽子を吹き飛ばされるのと一緒に、その春画がその辺へちらかった。慌ててそれを拾うやら、閉口して逃げ出したなど升さんが帰っての話でした。秋山さんと升さんは、一番仲がよかったかして、よくお互いに誉めあっていました。升さんがアレはいずれ海軍大臣になりますよ、というと秋山さんはまた、正岡文部大臣の時が来るさ、といったりして、未来の大臣を夢見ていたようでした」と語っています。
 しかし、真之は明治19年に東京大学予備門を去ることを決めます。『友人子規』には真之が「毎年大学予備門に入る者がこう多数ではついに学士の氾濫を見るに至るであろう」と子規に語り、海軍兵学校へ転じたと記しています。この年の6月、帰省する真之に子規は冒頭の和歌を贈っています。
 子規は、真之のことを『七変人評論』で次のように評しています。この文章を『正岡子規と秋山参謀』で紹介した高浜虚子は、「天下の英雄は吾子と余のみ、といったような心地もほの見えておった」と二人の関係を語っています。日露戦争の日本海大海戦で勝利を得る前の真之に「日本が世界で名高くなる時分には松山が日本で名高くならいな」という感想を子規はもらしたといいます。
 
 あるいは曰く、伊予松山に人ありやと問わば、君は自ら我なりと答えん。大学予備門に人ありやと問わば、君は自ら我なりと答えん。その気、感ずべし。その意、許すべからず。才子は才を守り、愚は愚を守る、少年才子愚に及ばずとは名言なり。とにかく自惚するは、他人よりこれを見れば自惚するほど惚れぬのみか、かえってこれを悪むものなり。
  見るほどに見てくれもせぬ踊かな
 あるいは曰く、君は学問さほど博識を究めたりという能わずといえども、侃然事務にあたり、これを処理してその当を過たず、その職務を尽すことを得るは、同友中独り、君においてこれを見るならん。これ畢竟、君の俗才に長ぜるものにして、余輩の大いにこれを依頼するところのものなり。その気象は、真に人に信愛さるる風ありといえども、どうもすれば人と争論を開き、ために友誼を破るの恐れあり。これらの点に至りては、少しく軽躁に失するものの如し。その勉強の仕方に至りては、余輩は実に感服を表せざるを得ざるなり。
 あるいは曰く、当今の書生、活発ならんことを欲して軽躁に陥るもの比々皆これ、子が如きも活発と言えば活発と言うべし。軽躁と言えば軽躁というべし。けだし、子は六の軽躁を有し、四の活発を有するものというべし。しかり、而して君の如く普通の才を有するは余の未だかつて見ざるところなり。しかれどもその才たるや、大才あるにあらず。俗の『器用』なるものに過ぎざるなり。その例を言えば浄瑠璃の真似をなし、都々逸を歌う類なり。子は終身一つの技手にして果てんのみ、大事をなすに足らざるなり。(高浜虚子『正岡子規と秋山参謀』より)
※真之と味噌汁の思い出は​こちら
※真之の寄席ずきは​こちら
※子規の最後と葬列は​こちら





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最終更新日  2019.09.21 19:00:12
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