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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2020.08.26
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カテゴリ:夏目漱石
一月二十九日火 Craig氏に至る、King LearのIntroductionを書きつつあり。帰途、Water Colour Exhibitionを見る。画題筆法油画よりも我嗜好に投するものすこぶる多し。日本画に近き故か、日本の水彩画などは遠く及ばず。それよりPortrait Galleryを見る。一婦人妙な風なのあり。諸人これを嘲笑す。これが英国のcivilityか、厭な事なり、帰宅再出入浴、この日大風天気晴。(漱石日記)
 
 明治34年1月29日、漱石はベイカー・ストリートのクレイグ氏のところに出かけ、帰りがけにトラファルガー広場前の国立美術館で開催されていたWater Colour Exhibition(水彩画展覧会)に出かけました。水彩画は日本画に近いところがあって、それらは漱石の嗜好に合致しました。しかも、本場だけあって日本のものよりも数段優れています。この感動のためか、ロンドンから帰った後の漱石は水彩画に親しんでいます。
 
 門人の小宮豊隆は『漱石・寅吉・三重吉』掲載の「漱石と画」で「漱石は、明治三十六・七年のころに、相当熱心に、ワットマンの上に水彩画をかいている。これは恐らく橋口貢、その弟の橋口五葉、寺田寅彦などの剌激によるものに相違ないが、漱石は当時そういう人人と、しきりに自作水彩画の絵葉書を交換した。それは今日でもちゃんと保存されている。また当時漱石が、その中に水彩画をかいた、ボケット用のスケッチ・ブックも保存されている。漱石は、例えば子規のように、厳密な「写生」の画をかかなかった。後年の漱石は、必ずしもそうだとはいい切れないが、しかし当時の漱石は、その絵葉書においても、またそのスケッチ・ブックにおいても、物の形を精到に捉まえて、それを色彩で表現しようとするよりも、むしろ自分の頭の中にあるギジョン(=ビジョンか)に、先ず姿を与えたい、そのためには形なぞどうだって構わないと、考えていたものらしく見える。ーー柳の樹の下に白い家鴨が三四羽遊んでいる。しかしそれは柳だか家鴨だか、よく分からない。それにも拘わらず、絲の色が竪に縞目にすうすうと引かれている下に、いくつかの白点がある色彩の世界は、何かしらこれをかいた人が、この世界に這入って、さぞ愉快な心持がしたに違いないと想像させる、特別な感じを持っている。海岸の、海の向うに島の見える、松の樹のある丘の上に、大きな丸い石が据えてある。その石の上に、ちょうど雪逹磨の首のように、もうーつ小さな石が載っけてある。大きな石の胴中には、何か梵字のようなものが一字、黒く彫り込んである。これに漱石は『わが墓』と題した。そうかと思うと、書架を四五段かいて、それに列べた本の背中を、紅だの黄だの茶だの藍だので、無維作に表現し、それに”You and I/ Nobody by”と題した画もある。しかしこういう水彩画は、漱石が『猫』をかき『倫敦塔』をかき、段段創作に熱中するに従って、次第に漱石の頭の中から、その姿を消して行った。明治三十八年も三月以後になると、漱石が自作水彩画の絵葉書を人に送ることも、殆んど絶えてしまったのではないかと思われる。漱石は、創作の方が面白く、また創作の方が急がしく、到底水彩画なぞかいている余裕を、持つことが出来なくなるのである。漱石が、絹の上に「最明寺殿」をかいたのは、それから七年以上もたってからのことであった。漱石は、自分が過去に水彩画をかいたことがあるなどということは、あるいは忘れてしまっていたのかも知れない」と書いています。
 この水彩画の展覧会に何が展示されていたかは記されていませんが、ターナーやウィルソンなどのイギリス風景画の巨匠たちの作品が並べられていたのだろうと思います。そうした風景の描かれた水彩画を見ることで、ヒビの入りかけた漱石の心もいくらか癒されたかもしれません。
 
 
Portrait Gallery(国立肖像画館)は、国立美術館の裏側にあり、1856年にスタンホープ伯爵の援助で建てられたものです。イギリス人は肖像画を好み、ここには約8000点が収められています。漱石は『文学評論』の「第二篇 18世紀の状況一般 3芸術」の中でジョシュア・レイノルズを挙げ、イギリスで肖像画が発達した理由を掲げています。少し長い文章ですが、お読みいただければ幸いです。
 
 サー・ジョシュア・レノルヅは別方面の肖像画の部門を開拓して、その技術の開山と目せられているのみならず、また師として仰がれている。今までの画工の描いた画というものは肉でも衣服でも性格でも態度でも、筆に任せて在来の約束に従って描き上げたもので、毫も真の肖像らしい感じを与えなかったのを、レノルヅが出て来て、始めてこれを一変したのである。彼の画には非常に落ち付がある。しかも驚くべきほど緻密な観察がある。ちょっと捕えにくいような情を巧みに捕えて、描かれたる主を躍然と画布の上に写し出す。小児の無邪気な所でも、慈母の温情掬すべき有様でも、青春の燃るが如き狂熱でも、やすやすとこれを一枚のカンバスの中に収めてしまう。(レノルヅとともに肖像画家として知られたのはゲーンズボローであるが、肖像画家としてこの人のことを述べる余地がないから略することとする)
 そこでこの肖像画というものが何故こんなに発達したろうという問題になる。無論レノルヅのような大家が出たからであると答えればそれまでである。しかし何故こんなに流行したろう。人の言に依ると、彼の画室へは幾多の老若男女が絶間なく詰めかけて、先を争いつつ画中の人物となりたがったという話である。これも無論画家の技倆から出た繁昌には相違なかろうが、少し調べて見ると、この繁昌を来たした裏面には物質的膨脹という大原因が伏在している。その頃英国は農業上にも牧畜上にも、大なる改良の結果として非常の利益が受けた、いわば百姓の黄金時代である。そこで田舎の懐の暖くなった連中が一様に申し合せたように、自分どもの肖像を描がいてもらって、これを室内の装飾としたのだと、たしかある書物に書いてあったように記憶している。けれどもまた一方から見ると懐中が暖まったから必ずしも肖像画を描かせるという理窟もなさそうに見える。よし画の方に趣味が走るにしても山水画とか歴史画とかを買っても済みそうなものである。もちろんレノルヅが肖像画家であるからして注文するものも肖像画を描いてもらうのに不思議はないかも知れないが、問題を逆さにすれば、何故レノルヅが肖像画家専門ともいわれるようになったのだろうともなる。私はこんな問題に答える資格も義務もない。また誰だって到底答えることの出来ない問題かも知れない。しかしこの一節においても出来得るならば、文学の方と幾分の関係をつけて見て、相互に共通類似の点があれば、異った社会的現象の底にも暗流が―つになって彼我を貫いているという解釈が出来ると思う。少しコジツケになると思ったらあとから割引をして置けばよい。一体、画で肖像画と称するのは文学において何に相当するだろう。写実小説でもあるまい。(これは画の方でいうとホーガースの領分である)歴史的ロマンスでもあるまい。(これは歴史画に当る)古代の神話などを題目とした詩でもなかろう。(これはクラシカルな題目の絵画に相当する)するとレノルヅなどが描いた肖像画は文学でいうと何に当るだろうか。余の考ではいわゆる性格描(Character sketches)に匹敵するものではあるまいかと思う。Character sketchesといえば今でも通用する尋常の語のように聞えるかも知れないが、昔はもっと特別な意味を有していた。これは十七世紀頃から起ったもので、始めは僧侶とか教師とかいうぽんやりした題目の下に、ごく短かい叙述をしていた。もとより類型以上に漠たるものであったが、十八世紀になると、それが段々に発達して来た。小説のように筋の立ったものでないにしても、ともかく短篇の中にある人物の性格をちょっと画き出すようになった。アヂソン、スチールなどが自家の雑誌上で得意に遣った仕事の一分はこのCharacter sketchである。中にもアヂソンの作ったかのサー・ロジャーの如きは、今以て文学史上有名な人物となっている。何故この意味の性格描写が肖像画に比較すべきものかというと、御承知の通り肖像画は現前の人をそのままにあらわすのが主であって、モデルそのものがある目的の方便に使用されるのとは大変趣が違う。その人が憂いておれば憂いたようにかけば好い。笑っておれば笑ったように写せば好い。そんな表情をされてはこの場合困るから、もう少し我慢して真面目になってくれろと注文する必要も何にもない。かように描かるべき人物が、偽わらざる自己の表情即ち性格の符徴を持ってくるのを、画家の方では随時に摸写するのであるから、いわゆるカラクター・スケッチと大変その揆を一にした所がある。この二者が偶然併発したとすればそれまでであるが、もし一代の好尚が根にあって、その根から分れて画に入って肖像画となり、文にあらわれて一種の性格描写となったとすると、大分話が面白くなってくる。私は単に自分の話を面白くするために必ずそうだと断言するほどの勇気はない。けれども幾分かそうかも知れないとだけいって、あとは諸君の研究と判断に任せるまでにはして置きたい。しかし大した思付でもない。幾分の真理があるにしても、ただそれ限のことである。甚だ浅薄の思付であるとは気が付いている。
 今一つレノルヅの画が十八世紀の特色を帯びていることがある。十八世紀は一面にクラシカルな世である。フィールヂングやホーガースが出たにもかかわらずなかなか約束的である。ところが今いう肖像画は決してクラシカルな題目ではない。レノルヅはこの中間に立って巧みにこの二者を調和して彼の画を時勢に応ずるほどのクラシカルなものにしたのである。即ち彼は彼の描く当時の人物を古代の人の服装を着せるとか、またはもう一歩進んでこれを上世の神に見立るとかして、依頼者の請求に応じたのである。かの有名なるシドンス夫人が悲劇の女神としてこの画家の手に不朽の芳名を垂れつつあるはあまねく人の知る所である。これも時代の影響の一部として見れば見ることが出来ると思う。(文学評論)





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最終更新日  2020.08.26 19:00:05
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