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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2020.10.31
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カテゴリ:正岡子規
   冬さびぬ蔵澤の竹明月の書(明治30)
   蔵澤の竹も久しや庵の秋(明治31)
   いにしへの故郷人のゑがきにし墨絵の竹に向ひ坐すわれは(明治31)
 
 明治35年5月29日、子規は自分の部屋の隣にある八畳間の床の間を写生しました。
 床の間には砥部焼の花瓶があり、芍薬が活けてあります。この芍薬は本所の牡丹園で伊藤左千夫が買ったもので、1本は白い花の芍薬でした。
 花瓶もまた竹村秋竹から送られたものです。秋竹は碧梧桐の同期生で、松山の末広町に生れてました。しかし、秋竹は明治34年に子規の俳句を無断で掲載した『明治俳句』を発行したため、子規一門から破門同様の扱いを受け、この頃には子規の近くには現れませんでした。
 また、昨年もらった卓と、蔵沢の絵が描かれています。
 
 
 6月7日の『病牀六尺』には、子規の病牀周りに何が置かれているかが書かれています。
 
○今日只今(六月五日午後六時)病床を取巻いている所の物を一々数えて見ると、何年来置き古し見古した蓑、笠、伊達正宗の額、向島百花園晩秋の景の水画、雪の林の水画、酔桃館蔵沢の墨竹、何も書かぬ赤短冊などのほかに。
 写真双眼鏡、これは前日活動写真が見たいなどというた処から気をきかして古洲が贈ってくれたのである。小金井の桜、隅田の月夜、田子の浦の浪、百花園の萩、何でも奥深く立体的に見えるので、ほかの人は子供だましだというかも知れぬが、自分にはこれを覗くのが嬉しくて嬉しくて堪らんのである。
 河豚提灯、これは江の島から花笠が贈ってくれたもの、それを頭の上に吊してあるので、来る人が皆豚の膀胱かと間違へるのもなかなか興がある。
 喇嘛(ラマ)教の曼陀羅、これは三尺に五尺位な切れで壁にかけるやうになつて居る。その中央一ぱいに一大円形を画き、その円形の内部に正方形を画き、その正方形の内部に更に小円形を画き、その円形の中に小さな仏様が四方四面に向き合ふて画いてある。そのあたりには仏具のやうな物や仏壇のやうなものがやはり幾何学的に排列せられて居る。また大円形の周囲には、仏様や天部の神様のやうなものや、紫雲や、青雲や、白雲や、奇妙な赤い髷括りのようなものが附いている樹木や、種々雑多の物が赤青白黄紫などの極彩色で画いてある極めて精巧なものである。
 大津絵二枚、これは五枚の中のへげ残りが襖に貼られている。四方太が大津から買うて来た奉書摺のものである。今あるのは猿が瓢箪で鯰を押さえとる処と、大黒が福禄寿の頭へ梯子をかけて月代(さかやき)を剃って居る処との二つである。
 丁字簾一枚、これは朝鮮にいる人からの贈物で座敷の縁側にかかっている。この簾を透して隣の羯翁のうちの竹藪がそよいでいる。
 花菖蒲及び蝿取撫子、これは二、三日前、家の者が堀切へ往て取って帰ったもので、今は床の間の花活に活けられておる。花活は秀真が鋳たのである。
 美女桜、ロベリヤ、松葉菊及び樺色の草花、これは先日碧梧桐の持って来てくれた盆栽で、今は床の間の前にならべて置かれてある。美女桜の花は濃紅、松葉菊の花は淡紅、ロベリヤは菫よりも小さな花で紫、他の一種は苧環草(おだまきそう)に似た花と葉で、花の色は凌霄花(のうぜんかずら)の如き樺色である。
 黄百合二本、これは去年信州の木外から贈つてくれたもので、諏訪山中の産じゃそうな。今を盛りと庭の真中に開いておる。
 美人草、よろよろとして風に折れそうな花二つ三つ。
 銭葵一本、松の木の蔭に伸びかねておる。
 薔薇、大方は散りて殷紅(あんこう)色の花が一、二輪咲残っている。
 そのほか庭にある樹は椎、樫、松、梅、ゆすら梅、茶など。
 枕許にちらかってあるもの、絵本、雑誌等数十冊。置時計、寒暖計、硯、筆、唾壺、汚物入れの丼鉢、呼鈴、まごの手、ハンケチ、その中に目立ちたる毛繻子のはでなる毛蒲団一枚、これは軍艦にいる友達から贈られたのである。(病牀六尺 明治35年6月7日)
 
 蔵沢とは吉田蔵沢のことで、松山藩士でありながら余儀に墨絵を描き、のちに南画家として知られています。特に墨竹の画で知られ、明治32年8月23日付の佐伯政直宛の手紙には「松山を誇り申候」「昔より南宋の画家多けれど竹において蔵沢位なのはなかるべく諸大家の賞賛を博し申候」とあり、明治33年11月20日刊行の「ホトトギス」に掲載された『明治三十三年十月十五日記事』には「この例の如き飾りつけというは、先ず真中に、極めてきたなき紙表装の墨竹の大幅を掛けあり。この絵の竹は葉少く竿多く、最太い竿は幅五六寸もあり。蔵沢という余と同郷の古人の筆なり。墨色濡うが如く趣向も善きにや浅井(=浅井忠)下村(=下村為山)中村(=中村不折)など諸先生にほめられ、湖村(=桂湖村)は一ケ月に幾度来ても来る度にほめて行く。余が家この外に蔵幅なければ三年経ても五年経ても床の間の正面はいつもこの古びたる竹なり」と紹介されています。





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最終更新日  2020.10.31 19:00:05
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