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カテゴリ:夏目漱石
唐人の飴売見えぬ柳かな 漱石(明治29) 室町時代になると水飴を売る商人が現れます。彼らのほとんどは中国大陸からの移住者で、彼らは日本宣告で飴やおこしなどの食べ物や、くし、化粧品などを売り歩きました。また、往来で傀儡などの芸能をして背にを稼いでいました。江戸時代の後期になると、異国人風の格好をして異国風の口上を述べ、チャルメラや唐人風の踊りを舞って客を集め、飴を売りました。「唐人」とは、中国人に限らず異人のことを指し、南蛮人を「毛唐」と呼んだのは、赤毛の唐人という意味です。 明治になっても、こうしたパフォーマンスは続き、唐人帽をかぶって喇叭などの楽器を吹く飴売りの姿は往来などでよく見られました。 漱石の小説では、『坊っちゃん』に笹飴などが登場しますが、唐人飴は見当たりません。また『文学論』の第5章には「孝子は飴を見て親を養わんと欲す、これその核の親に存するが故なり、丏児(かいじ)は飴を得て銭を釣らんと欲す。これその核の銭にあればなり」とあり、明治43年8月7日の日記に「厨山峰をはれやかにす。須臾にして雨。飴売の笛の声をきく」とあり、修善寺で飴売りの声を聞いています。 興味深いのは、漱石が松山中学の教師を去る時に書いた『愚見数則』で、「文章は飴細工の如きものなり、延ばせばいくらでも延る、その代りに正味は減るものと知るべし」と記されています。
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最終更新日
2021.04.19 19:00:06
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