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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2021.04.18
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カテゴリ:正岡子規
『虚子自伝』には「私は子供の時分からあまり健康な方ではありませんでした。発育盛りの十二三歳の頃でもありましたか、その時分に瘧を患いまして、それがなかなか治らないで、治ったかと思うとまたぶり返し、治ったかと思うとまたぶり返す、といったような有様で、非常に衰弱し発育が悪くなりました。それまでは体操の時分に並ぶ順番などは初めの方であったのでありますが、一年ばかりそんなことが続いた挙句、たちまち半ば以下になり、ついには終いの方になるという有様でありました。元来強健といえぬ体が、そんな有様であったため、甚だ不健康になり、一時、私はとても長生きはできぬものと考え、せめて二十五まで生きたらば、などと考えたことがありました。そうしてまた一時胃を悪くしまして、食物が不消化で、何を食っても胃の中で腐敗するというような状態がつづいたことがありました。まだその頃京都に来て下宿生活に慣れず、ことにその寒さに犯されて、胃痛に悩まされたために、いくらか意気の銷沈したのを覚えました」とあります。
 
 また、『屁』という文で、「眠れない夜に、屁を十発したら眠れるかもしれないと思いつき、あれこれ試して挙句に九発の屁で疲れ果てて寝た」と書いています。
 
 いつごろ書かれたものかはっきりしませんが、子規が門人たちを野菜に例えた「発句経譬喩品」は、子規が門人たちを野菜や果物に例えてユーモラスに批評したものです。その中て高浜虚子は「さつまいも」と評し、「甘味十分なり、屁を慎むべし」と書いています。
 この文は、梅沢墨水は、「確か、明治二十九年の十二月であったとおもう、例の蕪村忌を子規庵で営んだ時、余興として庵主の考案になる、同人の作句振りを八百屋物に譬えて、諧謔なる批評を下した」と雑誌『俳星』の百号記念の文で紹介しています。大谷繞石は、『正岡さん(※回想の子規)』で「この年の蕪村忌の折であったと思うが、行って見るというと、床の上に色んな八百物が陳列してあって、それに一々付紙がしてあった。蕪の下には鳴雪と記るしてある、胡蘿葡の下には墨水とあるの類で、それに一々註が施してある。例えば山の芋の付紙には『四方太、つくね芋に似て長し』で、慈姑の付紙には『繞石、旨けれども少しえぐい処あり』の類であった。そしてそれが大抵あたっているように思った」と書き、坂本四方太は『思ひ出づるまゝ(※回想の子規)』で「子規子は何事にも趣向を凝らす人であった事などは何人も知る所で、……何か特別の催しのある時には必ず一趣向ずつ附けてある。或は御馳走を持寄るとか、或は題を課して福引をするとかいう様な類、何年の蕪村忌であったか床の間に八百屋物を夥しく陳列して、鳴雪は蕪だとか碧梧桐はつくね芋だとかいうので、僕は山の芋に擬せられて碧梧桐に似て長しという註であった事を覚えて居る。年中寐ていて考えるとはいうものの元来生まれつきでなくてはとても出来ないことだ」と記しています。
 この『発句経譬喩品』は、大正14年暮れに大阪の天青堂から出版され、内藤鳴雪が「草も木も生い立ちて君が庭涼し」の句を寄せています。
 
 これらのことからも、虚子の胃弱ぶりがわかります。そのため、脂っこいものは食べられませんでしたが、酒が好きでよく飲みましたから、ますます胃を悪くしました。明治32年になると、大腸カタルで駿河台の山龍堂という病院に一ヶ月入院しています。一時危篤に陥りますが、ようやく一命を取り止めました。
 息子の池内友次郎は、『父・高浜虚子』で「貧乏ではなかったが質素に生活していた。食事はつつましいものであった。御馳走としては、コロッケとトンカツ、それらが週一回ずつくらい交互にあり、その他は、鰺などの魚が大きい鍋にいっぱい煮てあって、あるいは、馬鈴薯や南瓜などの野菜類が大きいどんぶりに盛られてあって、われわれはそれを自分の皿にとって食べる。贅沢からはほど遠かった」と、幼い頃の食事を回想しています。
 
 漱石は、明治42年4月5日の日記に、「夜、虚子のところへ文学評論を持って行く。巨口と小浜を相手にして田楽で酒を呑んでいる。桜が咲きかけたからだという。巨口は芸者になる女といい仲になって東京に来たのだそうだ。虚子、酒がうまいといってしきりに呑む。九時過東洋城来る。虚子ますます酒をうまがる。甚だ太平楽也。自分も常に似ず、呑んで駄弁を揮う。十一時より謡一番を謡って、東洋城を拉して帰る」とあります。
 
 虚子は、胃弱のために煮物をよく食べていましたが、それは温めなおすことで何度でも食べられるという、貧乏であるが故の合理性が体に染み付いていたようです。その代表的な食べ物が「田楽」=「おでん」でした。
 





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最終更新日  2021.04.18 19:00:06
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