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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2021.07.20
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カテゴリ:夏目漱石
   乳兄弟名乗り合たる榾火哉  漱石(明治28)
 慶応3(1867)年の旧暦1月5日(新暦では2月9日)に、漱石は、夏目小兵衛直克の五男として生まれました。母の千枝は、直克の後妻で数え年41歳でした。当時としても高齢出産で、金之助は望んで生まれた子ではありませんでした。
 それには、千枝が高齢のために哺乳が出ないという問題をはらんでいました。
 漱石の『硝子戸の中』には、「母はこんな年齢(とし)をして懐妊するのは面目ないといったとかいう話が、今でも折々は繰り返されている。単にそのためばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私を里に遣ってしまった。その里というのは、無論私の記憶に残っている筈がないけれども、成人の後聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世にしていた貧しい夫婦ものであったらしい。私はその道具屋の我楽多と一緒に、小さい笊の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝されていたのである。それをある晩、私の姉が何かの序にそのところを通り掛った時見付けて、可哀想とでも思ったのだろう、懐へ入れて宅へ連れて来たが、私はその夜どうしても寝付かずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいうので、姉は大いに父から叱られたそうである(29)」とあります。
 
 小宮豊隆は『夏目漱石』の中で「その小道具屋というのは、夏目家に勤めていた下女の、姉の片付いていたうちだと言い伝えられているのみである」と記しています。また、漱石が塩原家に養子に出されたのは明治元(1868)年11月のことで、漱石がようやく1歳になった時分であれば、子供を産んでいないと乳飲み子を養えません。そこで、漱石は里子に出されたと考える方が納得がゆきます。漱石が、塩原家の元に赴くのは、小宮豊隆によれば「明治3(1870)年に塩原昌之助のもとに養われて行った筈である」ということで、母乳の心配がなくなってから、漱石は塩原家に入ったのでしょう。
 
『守貞謾稿』の「乳母」には「俗におんばという。半季給銀百目ばかりを与え、夏は麻衣・冬は冬服を与え、その間春秋には主婦の古服を与え諸費を供す。因みにいう、三都ともに半季奉公給金を与う者は、皆諸費を与えず、諸費給金にてこれを便ず。けだし家制にて給金のほかに姻草・紙等を与え、髪結銭・冷銭を与うことあり、あるいは与えざるあり。皆家制による。ただ三都ともに乳母のみ給料のほかに服および諸費を与う。けだし京坂にては乳母の児存亡ともにその児を養わず、またその費を与えず。江戸にては乳母の子存する者を好とし、これを養うの費を与う」とあり、こともが生まれても乳の出ない母のいる家庭では、乳母として里子に出したりするのは、この時代の常識でした。
 医者・桑田立齋が著した『愛育茶譚』(嘉永6年)には、「撰乳(うば)」として「乳母は二十歳より三十歳に及ぶもの、一二児を生育せし者を良とす。
○産後三月より多く経過せざるを撰むべし。そのうえ無病健康にして、その産時、今乳する所の児と同月なるを良とす。乳汁は甘美にして、雪白濃淡適宜なるを択ぶべし。青黄色交り臭気あるはあしく。○疥癬、梅毒等の病因に心を付べし。毛髪少く、聲音濁るもよろしからず。○乳母は多く貧賤にして、淡味薄衣に慣れたる者、富貴の家に来り仕うれば、厚衣を纏い、美味に飽く故に、かえってこれが為に病を生じ、乳性を損すること多し。身粗食して健動し、神思安逸にして、欝滞せざれば、乳性極て良なり。然るに頓(にわか)に平素の作業を廃し、膏腴(うまきもの)に飽き、神思を労し、すなわち乳性を変敗し、あるいは多く出たる乳も頓に減少することあり。○乳汁青色を含むは、淡薄に過るなり。黄色を帯るものは、脂肪過多、あるいは腐敗するものなり。爪の上へ落すにその滴するに遅速中を得るを佳とす。速に落るは淡薄に過ぎ、久しく留るは稠厚に過て共によろしからず。○喜怒飲食の変、二便常を失うより、良性の乳もたちまちに変することあり。怒て乳すれば、驚風、あるいは腹痛を発する者あり。故に怒て後、直に乳すべからず。必半時許を待つべし。○房事中乳すること最も慎むべし。よく驚癇を発することあり。○乳房寒風の侵掠を受るを以て生ずる乳病、しばしばこれあり。故に乳房は温暖に保持するを佳とす。○催睡する為に多く乳を哺しめ、盪揺すること勿るべし。児をして甚久しく眠らしむるは、乳母の憩息に便なりとすれども、児の為にはその発生をさまたげて害あり。○酸敗液を防ぐ為に時々少しの魚鳥の羹汁、及び雞子黄(たまごのきみ)に水を交えたるを与うべし。○乳児の青便にその母魚鳥の羹汁を食て大によし。その児青便酸敗症治するのみならず、他症の増発を予防するに足るものなり」と書かれてあり、乳母の授乳への注意が書かれています。
 
 当時は、母乳の代用品が確立されておらず、前述した『愛育茶譚』には「代乳(ちちのこ)」として「人乳とその景象の近きものは、牛乳なり。然れども人乳に比すれば重しとす。故に初め半分水を混和し与う。三七日の後には、水三分を合し与うべし。○胡蘿菔(にんじん)を細研(おろ)し、水に煮て糊の如くにし、与えて長育する児、しばしばこれあり。○大麦一二勺よく洗て水を適宜に入れ、文(やわらかな)火にて煮熱し瀘して滓(かす)を去り、その汁を再火に上せ、氷糖少し入て味乳に似たるようにし、これを少しずつ湯煎にして、竹筒にてつくりたる乳筒にて用うべし。○又方、麦を饅頭の皮の如く製し、細磨し水に煮て上好の石鹸少し入れ、砂糖を加え、糊の如くして与う。○又方、水を以て饅頭の皮を煮、粥の如くし、牛乳を以て淡薄にし用う。いづれも日々新に製するよし。経宿(=古くなった)のものを用うべからず。○糯米(もちごめ)その他、粘稠の品にて製したるもの、乳の代りに用うべからず。また、砂糖は必上好の品をあたうべし。それも多きは宜しからず。下品の砂糖は味酸渋にして児に甚害ありとす。○薬を煎ずるは、勿論その他食物を煮るにも、鉄器土器をよろしとす。銅、真鍮の類は毒あり。用うべからず。その味を損じ、嘔氣を促すことあり」とあり、人参をすりおろしたもの、大麦をふやかして濾したもの、饅頭の皮をふやかしたものを母乳の代用とし、もち米の使用や砂糖を入れすぎることを禁じています。しかし、重湯や飴を溶かしたものをお乳の代用品とすることは、よく行われていたようです。
 
 母乳の代用としての牛乳を与えることも、明治時代中期頃から行われています。明治9(1876)年刊行の『育児小言』には「産後直に母の乳汁なしといえどもおそよ十二時間程は手製の食物手製の食物とは菜穀魚肉は勿論、乳汁に砂糖などを混和して性したるものを云下に倣えを与うるに及ばず。宜しく母の生乳分泌するを待って事足るべしといえども、もし切要なる塲合あれば、新鮮の牛乳三分の一へ棒砂糖を少し加えて甘味を付け、微温湯三分の二に調和して製乳すべし」とあり、明治11(1879)年の『健全論上』には「稚児には生母の乳汁あるいは牛乳にその三分一の温湯と少許りの砂糖を加えたるものを最も肝要とす」あります。しかし、当時の牛乳は質が悪く、衛生面の不備があるものもあり、新鮮な牛乳を必ず温めて飲むことを心がけなければなりませんでした。
 大正7(1918)年にようやく国産の乳児用粉ミルクが発売され、こうした苦労が報われることになりました。





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最終更新日  2021.07.20 05:10:15
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