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カテゴリ:夏目漱石
このゆえに天然にあれ、人事にあれ、衆俗の辟易して近づきがたしとなすところにおいて、芸術家は無数の琳琅を見、無上の宝璐を知る。俗にこれを名なづけて美化という。その実は美化でも何でもない。燦爛たる彩光は、炳乎として昔から現象世界に実在している。ただ一翳眼に在って空花乱墜するが故に、俗累の覊絏牢として絶ちがたきが故に、栄辱得喪のわれに逼まること、念々切せつなるが故に、ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、応挙が幽霊を描くまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである。(草枕 3) 卓上の談話は重(おも)に平凡な世間話であった。始のうちは、それさえ余り興味が乗らないように見えた。父はこういう場合には、よく自分の好きな書画骨董の話を持ち出すのを常としていた。そうして気が向けば、いくらでも、蔵から出して来て、客の前に陳べたものである。父の御蔭で、代助は多少この道に好悪を有てるようになっていた。兄も同様の原因から、画家の名前位は心得ていた。ただし、この方は掛物の前に立って、はあ仇英だね、はあ応挙だねというだけであった。面白い顔もしないから、面白いようにも見えなかった。それから真偽の鑑定のために、虫眼鏡などを振り舞わさない所は、誠吾も代助も同じことであった。父のように、こんな波は昔の人は描かないものだから、法にかなっていないなどという批評は、双方ともに、いまだかつて如何なる画に対しても加えたことはなかった。(それから 12) 二人は二階の広間へ入った。するとそこに応挙の絵がずらりと十幅ばかりかけてあった。それが不思議にも続きもので、右の端の巌の上に立っている三羽の鶴と、左の隅に翼をひろげて飛んでいる一羽のほかは、距離にしたら約二三間の間ことごとく波で埋っていた。 「唐紙に貼ってあったのを、剥して懸物にしたのだね」 一幅ごとに残っている開閉の手摺の痕と、引手の取れた部分の白い型を、父は自分に指し示した。自分は広間の真中に立ってこの雄大な画を描いた昔の日本人を尊敬することを、父の御蔭でようやく知った。(行人 塵労 8) 漱石は、応挙の絵を一つの物差しとして使っています。 『草枕』では、独自の画法に対して「ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、応挙が幽霊を描くまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである」と記します。 『それから』では、父が親しんでいる書画骨董の類が、応挙であってもその画法に言及しないことを書きます。つまり、代助の父は投機の対象としての書画骨董であることを示しています。 『行人』は、長野二郎が父親に誘われて上野の表慶館を訪ねるシーンに登場します。父は利休の手紙や、御物の王義之の書などを見ていき、やがて、応挙の作品の前に行きます。十幅ばかり、波のなかに数羽の鶴が描かれており、唐紙に貼ってあったものを掛軸に直したのだろうという記述から、この作品が『波濤図』であることがわかります。
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最終更新日
2022.01.26 19:00:06
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