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カテゴリ:正岡子規
明治19年4月14日、子規と同居していた清水則遠が脚気で他界しました。友の死は自分の責任であると考えた子規は憔悴し、それをねぎらうため、真之が子規の下宿に住むようになります。 極堂著『友人子規』には、子規と真之が徹夜を競争し、真之は約束しながらも先に寝込んでしまった子規の寝姿の輪郭を壁に書いたことが記されています。二人の仲の良さが示されるエピソードは、枚挙にいとまがありません。 清水は急死し井林はどこか他の下宿に転て居なくなったが、そのあとへ秋山が来て子規と同宿することになった。室を替えて二階八畳の間に秋山は西の端、子規は東の端に分れて南向きに机を据えていた。ある朝日曜でもあったろうか、予は子規をたずねしに、折しも朝食の際にて女中相手に冗談言いつつ食事をしていたが、子規は味噌汁の替りを女中に請求した。下宿屋の味噌汁は一椀に限っています、お替りは出ませんと女中が拒絶する。マアそう言わないで持って来い、僕はも少し貰わねば飯が食えない、イヤなりません。お主婦さんが承知する筈がありませんからと、しばらくいい合っていたが、そこはお客の権威とでもいうべきか、女中の方が少し弱わりかけた時、但し唯は貰わぬ、お礼に僕が英語を毎朝一つ宛数えてやると子規はいう。女中は汁椀を取ってお主婦さんが承知してくれますかしらといいつつ階段を降りて行った。汁の中へ素湯をぶちこんで持って来るにきまっているよと秋山は笑っていたが、子規は真面目に女中を待っていた。例の大食家の胃嚢は素湯沢山の味噌汁でも甘んじて喰わねばすませ得なかったのであろう。その時女中に教えた英語というのはグッド・モーニング何とかいうのであった。 ふと子規の机の据えられし側の壁を見ると、机によったまま眠り倒れているらしい人の影を鉛筆で綸郭を取ったと思わるるものが描かれているので、あれは何かねと訊くと秋山が「正岡の寝像だ、僕が昨夜輪郭を取っておいたのだ、正岡が如何に強情でもこうしておけばグウの音も出ないだろうと思ってやっておいたのだ」という。それはまた如何なる訳かと問えば、昨晩寄席から帰ると今夜は徹夜で勉強しようと二人が相談し、もし落伍して先きに眠った者は翌日その罰として何か奢ることに約束せしに、正岡は終に机上に眠り伏してしまったから、約束履行を追る時の証拠に影の輪郭を取っておいたのだと秋山は説明して呵々大笑した。秋山は常時宵の内は友人等と盛に遊び、他の寝静まる頃から夜を徹して勉強する習慣あり、その旺盛なる精力は実に驚くべく、負けじ魂の子規はこれに対抗せんと種々努めしが、到底追從を許さなかったということである。(柳原極堂 友人子規) 幼い頃から寄席好きの子規は、友人たちと連れ立って寄席に出かけました。木戸銭の捻出に借金や質屋を利用したこともあります。神田連雀町には「白梅亭」、日本橋通石町に「立花亭」があり、猿楽町の下宿からも近かて所にありました。 当時は「娘義太夫」がブームとなっていて、書生たちは「堂摺連」を結成して、奇声を発しました。名前の通り、サワリの部分で「どうするどうする」と囃したて、拍手喝采するのだが、子規らもそれに倣っています。 南方熊楠は、大学予備門で同級だった子規や秋山真之が大流行していた奥州仙台節を習っていると記しています。奥州仙台節は、談洲楼燕枝の弟子・柳家つばめが流行させた音曲です。 岡本綺堂著『風俗明治東京物語』によれば、百軒以上の寄席があり、通常は午後6時頃からの開演となります。電灯が一般に普及する前だから場内は薄暗かったため、騒いでもお咎めが少なかったのかもしれません。 明治十八年、余東京大学予備門にあった時、柳屋つばめという人、諸処の寄席で奥州仙台節を唄い、余と同級生だった秋山真之氏や故正岡子規など、夢中になって稽古しおった。(南方熊楠『磐城荒浜町の万町歩節』) 秋山(真之)と居士と私と三人は、よく本郷や神田の落語講談の寄席漁りをしたもので、気に喰わぬ芸人が高座に出ると、下足札をガチガチ鳴らして盛んに妨害を試み、それが奏効すると大声をあげて喜ぶのは秋山だった。居士も少しばかりは妨害につきあっていた。(柳原極堂 子規の青年時代)
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最終更新日
2022.01.27 19:00:08
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