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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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カテゴリ:正岡子規
   御仏に供へあまりの柿十五(明治30)
   柿熱す愚庵に猿も弟子もなし(明治30)
   つりかねの帯のところが渋かりき(明治30)
 
 明治30(1897)年5月18日、子規の柿好きを知る愚庵は「園中の柿秋になり候ば一筺差上可申と今より待居候」と手紙を送りました。
 
 今日碧梧桐来たる。承り候得ば、君にはなお御平臥の由、溜息の至り也。我輩近来ややよろしく候得共、御同然すでに膏肓に入りたる。病根は人間なんともいたし難く候。ただ入りたる物は出る時無ルベからず。その出る所の方向に於いては今更喋々するにも及ばず。安心してその時を待つが上策也と存じ候。園中の柿秋になり候わば、一筺差上可申と今より待居候ことに候。緩々御保養可被成候。御見舞いまで。 頓首。(天田愚庵 子規宛て書簡 明治30年5月18日)
 
 その年の10月10日、愚庵は約束通り、庵に仮寓していた桂湖村に頼んで、柿15個とマツタケを届けてきました。「釣鐘」という名の大きな柿です。子規は早速三個食べ、その夜に十個を食べました。
 当時、子規は小説『曼珠沙華』を書いていて忙しく、愚庵への礼状を出すのが遅れていました。10月28日に「多年の思い今日に果たし候」という愚庵への礼状を出すと、その翌朝に湖村が子規を訪ねてきました。湖村へのハガキには6首の短歌が記され、そのなかに「正岡はまさきくてあるか柿の実のあまきともいわずしぶきともいわず」とあります。
 愚庵は心配しているのではあるまいか。しかも、柿の礼状はまだ愚庵のもとに届いていません。そう考えた子規は、再び詫びの手紙を送りました。「柿の実のあまきもありぬかきのみの渋きもありぬしぶきぞうまき」という短歌は、愚庵のハガキの歌への返歌でもありました。
 
 拝啓 御起居いかに御座候哉。先日は湖村氏帰郷の節佳菓御恵投に預かり奉萬謝候。多年の思い今日に果たし候。 右御礼労。敬白。
      愚庵禅師 御もと
   御仏に供へあまりの柿十五
   柿熟す愚庵に猿も弟子もなし
     釣鐘という柿の名もおかしく聞き捨てがたくて
   つりかねの蔕のところが渋かりき
     出たらめ御叱正可被下候。(天田愚庵当て書簡 明治30年10月28日)
 
 昨夜手紙を認めおわり候。今朝湖村氏来訪。御端書拝誦。御歌いづれも面白く拝承仕り候。失礼ながらこの頃の御和歌春頃のにくらべて一きわ目だちて覚え申し候。おのれもうらやましくて何をかなと思い候へども言葉知らぬはすべもなし。さればとてこのまま黙止め過んも中々に心なきわざナメリト俳諧歌とでも狂歌とでもいうべきもの二つ三つ出放題にうなり出し候。御笑い草ともなりなんには売れしかるべく、あなかしこ。
      愚庵禅師 御もと
   みほとけにそなへし柿のあまりつらん我にそたひし十あまりいつつ
   柿の実のあまきもありぬかきのみの渋きもありぬ渋きぞうまき
   籠にもりて柿おくり来ぬふるさとの高尾の山は紅葉そめけん
   世の人はさかしらをすと酒のみぬあれは柿くひて猿にかも似る
   おろかちふ庵のあるしかあれにたひし柿のうまさのわすらえなくに
   あまりうまさに文書くことそわすれつる心あるごとな思ひ吾師
     発句よみの狂歌いかが見給うらむ(天田愚庵当て書簡 明治30年10月29日)
 
 翌年の柿の季節には、当時大阪朝日新聞京都支社の記者をしていた寒川鼠骨の提案で、愚庵の柿を枝ごと折り、夜汽車に飛び乗って東京の子規の家までそれを届けました。
 
 拝復。今年は柿上作につき御恵贈被下由。御報に接しすでに垂涎罷在候。近日鼠骨参上可致につき同人へ御托被下度奉願候。近日俳諧雑誌発行の計画あり。見栄も無之候えどもでき候わば、一号試しに御送可申上候。(天田愚庵当て葉書 明治31年10月4日)
 
 今回の子規は、前回の愚を繰り返さないよう、愚庵宛ての礼状をすぐさま送っています。
 しかし、柿を届けた鼠骨は、日頃から鼠骨を快く思わぬ同僚が、仕事の途中で上京した鼠骨を非難認め、たまたま京都に来ていた陸羯南に相談して、鼠骨は辞表を会社に提出しました。
 
 翌卅一年の秋十月七日の午後、私は愚庵和尚を東山産寧坂の隠棲に訪れた。和尚は庭前の柿樹を指示し、昨年かの柿実を桂湖村の東帰に託して子規居士に送ったら、非常に喜んで歌まで詠んで礼をいってきた、今年もあの如くたくさんに熟したから、贈って嬉しがらせたいと思うがわしには小包料がないと、如何にも残念らしくいう。私は小包料を奉納するのは何でもないが、柿の実を小包にするのは面倒だ、潰れる心配がある、枝ながら贈ったら面白かろう、私が持って行ってこようというと、和尚は大きな口を開いて呵々大笑いし、それは最も面白い、いくらでも折って行けという。私は早速靴下を脱ぎ、洋服で柿の木によじ上り、手頃な枝を数本折って、それを提げてそ
のまま直ちに七条停車場へ車を飛ばし、ここで端書をしたため、ちょっと東京へ行ってくる旨を新聞社に遁じ、午後の汽車でさやかな後の月を賞しながら翌十月八日に新橋駅に着いた。
 一応神田の高田屋下宿へ立寄って碧梧桐を訪ね、柿を齎した次第を話すと、碧君もその突然に驚いたが、折ふしこの夜根岸の子規庵で俳句会があるというので、相擁えて午後早く子規庵を訪れた。居士は枝ながら折ってきたことを非常に喜んでくれた。
……
 しかしこの柿を持ってきたことは幸か不幸か私の素志を貫徹させる動機となった.私は重大な任務を帯びていたのに、それを捨てて勝手に上京したため、私の同僚から私を枇援に弾劾した。日頃から私を排斥しようとしていた同僚には、よい口実を与えたのだった。社長は非常に寛大で、弾劾を取上げようとせず、私の罪を問おうともしなかった。この時に恰も京都に閑遊中であった陸羯南翁(子規居士の新聞「日本」の社長)は私の柿事件の始絡を聞いてひどく私に同情して、どうかなろうと思うから、ここで面倒なら東京へ来たまえといわれた。私は願ったり、かなったりで、真に盲亀の浮木、優曇華の花の心地で、即刻陸先生の書籍を預かり、それを持ち、「朝日新聞」へは辞表を出して東上の途についた。(寒川鼠骨 正岡子規の世界4





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最終更新日  2022.02.18 07:49:54
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