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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2022.05.11
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カテゴリ:正岡子規
   原千代子きのふ来りてくさぐさの話ききたりカステラ食いつつ
 
 明治33(1900)年5月9日、子規の病床に原千代女(千代子)がカステラを土産に訪ねてきました。翌日、香取秀真に宛て「原千代子昨日来りてくさぐさの話をききたり、カステラを喰いつつ」と手紙を送っています。
 千代女は神戸元町の貿易商「大島屋」の長女で、筋向かいに今も続く神戸風月堂がありました。神戸風月堂は、東京の風月堂に弟子入りしていた初代吉川市三が明治30(1897)年に創業した店です。子規の家に持参したカステラは神戸風月堂のもので、千代女が帰省の際に求めたものでしょう。帰省の旅の出来事や神戸の様子などの話が大いに盛り上がったのではないかと、短歌からも想像されます。
 子規がカステラを食べるのは、これが初めてではありません。記録を辿ると明治28(1895)年5月27日、神戸病院で牛乳、スープとともに食べています。残念ながら、子規が神戸病院にいた頃には、まだ神戸風月堂が誕生していないため、千代女持参のカステラとは異なります。しかし、千代女の持ってきてくれたカステラは、神戸病院での懐かしい思い出を運んできてくれたことでしょう。
 
 原千代女は明治11(1878)年、神戸の大島家に生まれ、京都府立高等女学校から東京の女子美術学校に進み、父方の祖父に当たる「原」の姓を継ぎました。子規からは俳句を、落合直文からは短歌と国文学を学び、明治40(1907)年に鋳金家の川崎安民と結婚して、養子に迎えます。安民は、香取秀真や画家の横山大観、下村観山らと東京美術学校(東京芸術大学美術学部)の同窓で、岡倉天心を師と仰ぎました。のちに天心が創刊した「日本美術」の編集をまかされ、安民は日本美術社社主となりました。
 
 ポルトガルには「カステラ」という名の菓子はなく、原型とされる菓子もカステラとは見た目も製法も異なります。「カステラ」の名前は、スペイン語で城を意味するカスティーリョ(castillo)に由来するとも、イベリア半島で11世紀に繁栄したカスティーリャ王国(Castilla)のポルトガル語発音であるカステーラ(Castela)といわれ、これが「かすていら」もしくは、「かすてえら」から「カステラ」になったといいます。また、カステラ製造のためにメレンゲをつくるときに、「城(castelo)のように高くなれ!」と高く高く盛り上がるまじないからともいわれます。
 カステラは南蛮菓子の一つですが、16世紀の室町時代末期にポルトガルの宣教師によって平戸や長崎に伝えられました。江戸時代になると、江戸・大坂を中心にカステラと、カステラを焼く炭釜の改良が進められ、江戸時代中期には現在の長崎カステラの原型に近いものがつくられるようになりました。
 教育社から出ている現代訳の『古今名物御前菓子秘伝抄』(鈴木晋一)には「古今名物御前菓子秘伝抄(享保3年・1718)」「古今名物御前菓子図式(宝暦11年・1761)」「菓子話船橋(天保12年・1841)」の「かすてら」のつくり方が掲載されています。それぞれの製法の違いから、カステラ作りが進化したことがわかります。
 
 鶏卵五〇個を割ってかきまぜ、白砂糖六〇〇匁(2.25kg)、小麦粉五〇〇匁(1.88kg)を入れてよくこね合わせ、銅の平鍋に紙を敷いて流し入れる。この平鍋を大きな鍋の中へ入れて金属の蓋をし、上下に火を置いて焦げ目のつくまで焼く。焼き上がったならば、いろいろの形に切る。ただし、焼く場合に下火は上火より強くする。
※かすてらは、江戸時代最も人気のあった高級南蛮菓子だった。諸書にその製法が見られ、なかには膨化剤らしきものを用いたり、卵白をすり、泡立てて膨化に利用している例もあるが、本書のこの製法ではふっくら焼けたかどうか、疑問である。(古今名物御前菓子秘伝抄)
 
 鶏卵一〇〇匁(375g)を割って小麦粉一〇〇匁を加え、播鉢ですったところへ、竹篩(たけぶるい)を通して白砂糖一一五匁(431g)を入れ、よくすりまぜる。火鉢に火をおこして四隅に埋めておき、さて、銅の焼鍋の中へ板で枠をつくって入れ、中へ厚紙を箱形に折って敷き、そこへすりまぜておいた種を流し入れ、上に渋紙で蓋をして火にかける。こうして暫くおいて熱が鍋の中に通りはじめたころ、渋紙をとって銅の蓋に替え、蓋の上に中央をあけて周囲にぐるりと火を並べる。
 やがて上火の熱がまわってくると、かすてらは膨れて浮き上がってくるので、ぐあいよく焼色がついたとき、細く割った竹をところどころへさし込んでかげんを調べる。よく火が通っていれば、竹にねばりつかなくなるから、それを見はからって鍋を火からおろして冷まし、かすてらを取り出して適宜に切る。右の火かげんは上下ともに弱めの火がよい。だいたい四時間ほどででき上がる。分量の多少に関係なく、右の割合でつくる。
※本文は具体的に書かれており、製法そのものも材料を合わせて播鉢ですりま競ることによって膨化をはかつており、『御前菓子秘伝抄』にくらべると大きく進歩している。渋紙は、紙をはり合わせて柿渋を塗ったもので、風や水を通しにくく包装用などに使われた。(古今名物御前菓子図式)
 
 小麦御膳粉一二〇匁(450g)、鶏卵大一五個、唐三盆砂糖二〇〇匁(750g)
 砂糖はそのまま篩にかけて塵を除き、小麦粉と合わせて水でほどよく溶き、鶏卵を割り入れてよくよくかきまわし、さて、かすてら鍋の中へ厚紙で文庫をつくって入子にし、その中へ種を流し入れる。鍋には共蓋をして、その蓋の上にも火を載せ、上下から焼く。火かげんは上七分、下三分というのがきまりである。上の火をなるべく強くして、下の火は弱くする。中までじゅうぶん火が通って焼けるまでの時聞は、ふつうの線香一本半が立つほどの間である。線香を立ててはかるとよい。
※かすてら鍋の名は、『料理早指南』四篇(1822)に見られる。同書にはその図があり、長方形で平底の銅鍋が描かれ、〈大ぶた有〉と記されている。大きな共蓋があって、その上に強い火を置いたわけである。また、共蓋であったかどうかは書いてないが、銅製の鍋を使うことは『和漢三才図会』(1715)から見られる。それ以前はどんな鍋を使ったかわからないが、鍋に流し入れた種の上に油紙をあて、その上から火のしで焼く方法が『料理塩梅集』(1668)に書かれている。専用のかすてら鍋をつくり出すまでには、いろんな曲折があったのだろう。文庫というのは小物入れの整理箱のことだが、ここでは紙を折って箱形にしたものをいっている。(菓子話船橋)
 晩年の子規は、投稿された俳句を閲覧し、選句するのを日課としていました。病状が重くなると、そうした俳句を見るのも難しくなり、次第に俳句の投稿が枕元に貯まるようになりました。それを見かねた子規の母・八重は、「藤村」と焼印の押されたカステラの空き箱に入れました。
 その様子を、高浜虚子は小説『柿二つ』に描写し、河東碧梧桐は『回想の子規』でそのことに触れています。
  
 こうやっていると小さい一本の筆が重くなる。筆が重くなるというよりも腕が重くなるのである。痩せた自分の腕が重くなるのである。そういう時には投げるように畳の上にその筆を持った右の手を落す。と同時にまた草稿を持った左の手をも蒲団の上に落す。
 草稿というのは新聞の文苑に出す俳句の投書である。少し怠っていると、来るに従って投げ込んで置く一つの投書函が忽ち一杯になる。それが一杯になると、あたかも桶にたまった一杯の水が添水(そうず)を動かすように、この病主人を動かしてその選抜に取りかからしめるのである。
 一昨年の暮まではまだ時々は社に出勤することも出来たし、そうでなくっても机に凭れて仕事するくらいのことには差支えなかったのである。自然俳句の投書も、来るに従って見、見るに従って選句を原稿紙に書留めて置くくらいのことをそれ程労苦とは思わなかったのであるが、昨年になってから腰部の疼痛がだんだん激しくなって来て、固より出勤は思いもよらず、家に在って仕事をするのも大方は寝床の上にあって、まだ蒲団の上に机を置いてそれに凭れるくらいのことは出来ないことはないにしても、どちらかといえば仰臥していることを一番楽に感ずるようになったのである。
「こんなに散らかっていてはしようがない」
 と言つて老いた母親が大きなカステイラの空箱を持出して来て、それに俳句の投稿を纏めて入れたのはその頃からであった。その空箱にはふじむらと烙印(やきいん)がしてあった。病主人は情無いような腹立たしいようないらいらした心持をじっと抑えながら、初めて枕頭に置かれたその箱を空眼をつかって見た。
 見渡したところ一つとして貧し気でない什器は無いのであるが、このカステイラの空箱も決して病主人の眼を楽しましめるものではなかった。その上自分の体のだんだん自由を欠いて来ることが事毎につけて情無かった。俳句の投稿を散らかさないために纏めて一つの箱に入れて置くということには異存の唱えようがないのであったが、唯それが自分の意思から出たので無く、また自分の手でなされたのでも無く、他人の手で容易に取り運ばれていつの間にか取り澄まして枕頭に置かれているということがじりじりと癇癪に障った。彼は何も言わずに唯じっとその箱を見詰めていた。ふじむらという変体仮名の烙印と暫く睨めっくらをしていた。鉛のような冷たい鈍重な心持ちが頭を擡げてきてそのいらいらした癇癪と席を取替えるまで。
 それ以来、このふじむら氏は長く投書函の役目を勤めて今日に来っているのである。それも初めの間は少し投書がたまると、すぐ選句に取りかかるのであったが、それがだんだんと延び延びになって来て、今年の春頃からは一杯になるのを合図にして選句に取りかかる例になった。(高浜虚子 柿二つ)
 
 年の暮と新年は新聞の厄月、雲州蜜柑は昔からの通り相場。アト四日、大晦日までの分は、まアどうやら埋め合わせるだけの原稿が出来たので、ホッと一息ついた処だった。今日は案外筆が進む。ついでに、新年の分も一、二回、墨をすり終わって、例の支那筆の小全豪を手にしたが、カタリと音をさせて投げ出した。
 チラッと彩られた光線の閃きが、机の左手の下の方を掠めて過ぎた、そんな気がしたのだ。そこには、いつでも枕元に置いてある、カステラの空箱があった。二円内外のカステラの入っていたらしい、かなり大きな箱なんだ。レッテルもまだそのままにしてある。カステラは空なんだが、その中には、諸方から来る俳稿が入れてある。開封で来るのが多いので、封紙を取った中身だけを、来たとも何とも言わず、家人が入れて置くのだ。もう中身は大分溜まって、餡が食み出そうに、蓋が少しずっている程だ。(河東碧梧桐 回想の子規 徹夜)
 
 「ふじむら」というと、本郷の「藤村」がまず頭に浮かびます。
『東京百事便』には「藤村 本郷4丁目」として「練り羊羹をもって有名なり。そのほか大徳寺は茶人の好むものにて田舎饅頭は一般下戸の喜ぶ菓子なり」とあります。「藤むら」は、もともと加賀の菓子舗でした。加賀百万石の前田利家は、豊臣秀吉が催した茶会で供された羊羹に括目し、金沢の地で羊羹を創るよう、金戸屋の忠左衛門に命令しました。忠左衛門は、40年にわたる苦心の末、三代藩主・利常の時代にようやく独自の羊羹を完成させます。その時に利常から「濃紫の藤にたとえんか、菖蒲の紫にいわんか、この色のこの香、味あわくして格調高く、藤むらさきの色またみやびなり」との絶賛を受け、金戸屋は藩の御用菓子司となりました。
 宝暦4年(1754年)、加賀十代藩主・重教の江戸出府に従い、金戸屋は江戸の加賀藩下屋敷の赤門(現東京大学の赤門)近くに店を構えました。その際、羊羹の色に因んで「藤村」と名乗り、店の屋号を「藤むら」としたのでした。
 現在、「藤むら」は店を閉めています。東京新聞編『東京の老舗』の中に「ようかんをはじめ和菓子ひとすじに精進し、おいしいものをお客様へということである。これを『藤むら』の正道と思い商売に励む当主昌弘さんの信条は、スモール・イズ・ビューティフル。単に小さいことに価値があるのではなく、それが美しく輝いていることに価値がある。商いを大きくせずに、大量に作らず、ていねいに手作りするからこそ価値があり、人を幸せにする味が生まれるという」とあります。とすれば「ふじむらと烙印(やきいん)がしてあった」というカステラの空き箱は、果たして「藤むら」のものでしょうか?






最終更新日  2022.05.11 19:00:05
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