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カテゴリ:正岡子規
炮烙の大豆にも逢はず秋暮れぬ(明治27) 炮烙に豆のはぢきや玉あられ(明治28) 短夜の明けて論語を読む子かな(明治34) 子規と三並良は、明治6年から末広学校(のちの智環学校)、明治8年1月から勝山学校に通学しました。この年、観山は病に臥せ、4月11日に58歳の若さで永眠します。 読書の楽しさを知ったのもこの頃でした。観山の蔵書は自由に見ることができ、藩邸からも本を借りることができました。文学の楽しさを教えてくれたのは、勝山学校の遠山先生と景浦先生でした。遠山先生は習字の時間に『西遊記』を身ぶり手ぶりで語り、景浦先生は数学と読書の折に古代中国の戦記を面白可笑しく話しとくれます。生徒たちはこれらの話を夢中になって聞いたといいます。子規たちは、数学と読書の復習に景浦先生の宅を訪ねるうち、これらの話に元ネタがあることに気づきました。景浦先生から貸本屋の存在を聞き、さまざまな貸本を読みふけったのでした。 本と軍談に魅了された子規は、自らの雑誌をつくろうと思い立ちます。明治11年には『自笑文草』という文集を編み、明治12年は「桜亭雑誌」という回覧雑誌を発行します。毛筆で書いた文や絵を四つ折の半紙に綴じたものでしたが、内容は、作文、漢詩、論説、ニュース、書画、謎ナゾなどで構成され、当時発刊されていた「海南新聞」(明治九年創刊の「愛媛新聞」を翌年改題)を模倣しています。子規は、自宅を発行所「雷雲舎」とし、社長、編集者、書記を一人で担当して「桜亭仙人」と称します。「緩寛人」という名でも文章を綴っています。 柳原極堂著『友人子規』には、子規の編集長ぶりが描写されています。近所に住んでいた近藤我観を記者として、記事の採用から挿画までの編集を取り仕切ったのです。小学生の子規は、他に「松山雑誌」「弁論雑誌」などを発行しています。 明治13年、松山中学へ進んだ子規は、竹村鍛の父である河東静渓の私塾・千舟学舎に学ぶ同級生の良や竹村鍛、太田正躬、森(安長)知之らの学友と親交を深め、「五友」と称し、漢詩のサークル「同親会」を結成して漢詩づくりに励みました。その成果は「同親会詩鈔」「同親会温知社吟稿」などの詩稿となります。松山中学時代には「五友雑誌」「莫逆詩文」「戯多々々珍誌」などをつくったのでした。 五友たちは例会を行い、各々の漢詩を批評しあいました。三並良は『子規の少年時代』で「会は月に何度であったか忘れたが、当番があった。会員の宅で開いたり、先生のお宅で開いたりした。当番はさし重という重箱へ会員に相当するだけの豆いりを出し、茶の世話をするのが義務になっていた」と書いています。また、鍛の弟の河東碧梧桐も『子規を語る』に「今夜は詩会だという日には、よく姉たちが、お煎りといって、水に浸した生米を焙烙でゴソリゴソリ煎っていた」と報告しています。 「おいり」とは、穀類を焙烙で煎ったもので、簡単でしかも安価なおやつでした。歯ごたえのあるおやつを嗜みながら、子規たちは詩作に励み、仙人の境地に浸ろうと夢想したのです。
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最終更新日
2022.07.10 19:00:06
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