220521大牟田・慧日寺・小野家・墓所1
慧日寺の小野家・墓所に来ました。33.073564, 130.492165本堂前を右に、ワンちゃんに吠えられて進み、右下へ、左へ進むと矢印で示されます。石段を上がると、墓所が広がっています。平らにされた地に、歴代の墓が並んでいます。三池炭鉱を開いた小野家の墓所★享保6年(1721)、三池鷹取山で石炭採掘事業を始める 江戸享保年間から明治初期まで約150年間にわたって 石炭採掘を行い、大牟田の石炭産業の基礎を築いたのが柳川藩代々の家老、小野家です。 ここ大牟田市岩本にある慧日寺は小野家の菩提寺であり、小野家墓所には第20代正俊から30代までの小野一族が埋葬されています。 小野家は、平安時代に権勢を極めた藤原道長を遠祖に持ち、道長の孫・藤原祐家が、居宅としていた京都の「小野宮第」に因み小野姓を名乗るようになることに始まります。 時代は下って戦国、第18代小野和泉守鎮幸が立花宗茂公 (1567-1642)に仕え、5000石を拝領して柳川藩筆頭家老の地位を得ました。 この鎮幸から数えて6代目の第23代春信が、藩政功労により立花鑑任公より三池平野山の鷹取山を賜り享保6年(1721) そこで石炭採掘を開始、 三池 炭鉱の始まりとなったのです。★日本七槍・立花四天王の一人に数えられた戦国武将和泉守鎮幸 小野家の石炭は瀬戸内海の製塩などに使われるようになり、藩財政を 大きく潤わせました。このため度重なる飢饉のときも、柳河藩では 一人の餓死者もでなかったと伝えられています。 明治5年(1872)、三池炭鉱は政府所有となり官営化、その後明治22年(1889)に三井組の経営となって日本の炭鉱に発展しました。 三池炭鉱は平成9年(1997)に閉山しました。 小野家中興の祖となった鎮幸は、日本七槍・立花 四天王の一人に数えられた戦国武将でした。 主君宗茂が関ヶ原の戦いで西軍についたため 立花家は取り潰しとなり、宗茂は肥後の加藤清正預かりの身となります。鎮幸も家臣団を率いて清正に仕え、その後宗茂が放浪の旅に出たあとも清正の下で生活資金を宗茂に送り続けました。慶長14年(1609)、鎮幸は熊本で没しました。★一族にはオノ・ヨーコ (小野洋子)さんも 元和6年(1620)、宗茂は柳河藩主に復帰します。 取り潰しのあと旧領復帰できた大名は、あとにも先にも宗茂だけです。 小野一族はただちに熊本から呼び戻され、代々立花藩の家老職を世襲することになりました。鎮幸の墓は熊本市の本妙寺参道脇の東光院にあります。 ビートルズのジョン・レノンの妻、 オノヨーコ(小野洋子)さんは、この小野一族です。墓の配置図です。