150422天水・漱石・草枕の道・前田案山子
天水の道を降りていると、前田家跡の説明板が見えました。32.850167, 130.598809「白壁の家(前田案山子翁本家跡): 「三丁程登ると向こうに白壁の一構えが見える・・・・崖の下は今過ぎた蜜柑山で村を跨いで向こうを見れば眼に入るものは言わずとも知れた青海である」 小天村(天水町)での清遊を素材として書かれた夏目漱石の名作・小説「草枕」の中に度々現れる白壁の家。 前田家は代々の豪農で、ここ小天村八久保に居を構えていた。文政11年(1818)当主前田誰鑑に三男が生まれて一角と名付けられ、元服して覚之助と称した。 12才のころから文を富永加賀に、武を福島寿兵衛に学び、諸目録を授かり、藩主細川斉護から一領一匹に召しだされて武芸にもはげみ、槍術の達人とまで言われるようになった。 明治維新に際し覚之助は志を立て、民業を保護し民権を拡大することが己のつとめであるとし、名を案山子と号した。案山子とは農民と共に生きるの意であろうか。 熊本県は干拓地が多いため当時は米の収量は少なく、農民からの免租(免税)の要望も強かった。 案山子は農民の集会の指導、民費軽減の問題処理に奔走し、新地の免租請願については30年間の免租延期を獲得した。また戸長等の不正摘発、農民一揆の際の農民の申し立ての仲介等々、県や中央政府との交渉にも当たり、多くの成果を収めた。 また湯ノ浦に別邸を建て、ここで中江兆民、岸田俊子、黄興、宮崎滔天等の志士と交流した。 小天村塾「蒙正館」を設立するなど教育にも力をうくし、更に明治23年(1890)63才にして第一回衆議院議員となるなど、中央政界でも活躍した。 「白壁の家」とは、ここ前田本家のことである。 また漱石が「わが墓」と呼んだ、海を見下ろす眺望の地は、この北の前田家墓地のことであるという。 明治37年死去、77才 辞世の句: 父母の かたみのこの身清らかに みがきおさめて 帰る古郷 」「前田家墓地(漱石画「わが墓」のモデル): 前田案山子が絶大な権力を誇った前田家。その本邸(「草枕」作中「白壁の家」)に隣接したこの墓地は有明海を眺望しており、夏目漱石は小天清遊中に見たこの墓からの光景を「わが墓」という作品に描いたといわれている。 前田家は大坂の役の後、当地に帰農した豊臣家の遺臣といわれており、この墓地に眠るのは案山子の先代以前であるが、唯一、若くして亡くなった案山子の次男清人のみ、現代的で大きな墓が建てられ、親兄弟の手厚い供養の念が感じられる。」さらに進むと、宮崎竜介の碑文がありました。32.847914, 130.596988「八久保小学校跡の碑(宮崎竜介の思い出): 八久保小学校は、明治43年に小天東小学校に併合されるまで八久保地区の教育の場であった。 宮崎滔天と結婚した案山子の三女槌は、中国革命に熱中するあまり、ほとんど家庭をかえりみない滔天に耐え、自らの生活費を稼ぐため石炭販売などにも従事していたという。この時、長男竜介は実家(父案山子)を頼って預けられ、ここで学び、八久保尋常小学校4年間の卒業証書を得ている。 東京大学に進んだ竜介は、出版社のアルバイト中に知り合った皇族の歌人柳原白蓮とのラブロマンスで一世を風靡。また父の功績から蒋介石とも親交が深く、近衛首相の勅命で日中和平交渉を託されるが、軍部の造反で逮捕監禁されたりした。 晩年、竜介は自筆の碑文を贈り、自身の学び舎の跡に幼少期の思い出と足跡を記した。」宮崎家については、是非、荒尾の「宮崎兄弟の生家」をお訪ね下さい。資料が揃っています。史跡案内板がありました。