190728鹿児島・草牟田・陸軍火薬庫跡
陸軍(草牟田)火薬庫跡に来ました。31.599650, 130.541357石碑と説明板がありました。 西南戦争勃発と草牟田火薬庫跡: 草牟田墓地の正面入口にある水道の横に「陸軍火薬庫跡」の石碑があります。この火薬庫は、明治初年官軍の火薬庫として、この碑より約100メートルの高台に、三棟設置されていたといわれています。 明治維新後、中央政府に不満をもった士族の間で、全国的に不穏な空気か漂っていました。 遂に明治9年になると熊本に神風連の乱(変)、福岡に秋月の乱、山口に萩の乱と次々に騒乱が起こりました。 明治10年の西南戦争は、私学校生徒が陸軍火薬庫を襲い、私学校草牟田分校にその火薬を隠匿した事が発端てあったと言われています。 西南戦争当時、16歳であった山口武二氏の火薬庫襲撃当夜の手記が残っています。 手記は『明治10年1月30日、私学校生徒は、草牟田、滝の上、催馬楽等の弾薬奪取あり。当校(私学校草牟田分校)は16 7歳の青年も之に加はりしと雖も、其当夜は全く知らざるもの多く、其計画の如呵に厳密にせられしやと、帰郷中の警視庁中原尚雄、高崎親章、安藤兼道等二十余名を各其家に襲ひ、之を捕縛す。之れ蓋し、私学校の形勢密偵且つ西郷先生暗殺の使命を帯せしと云ふにあり、物情騒然たり』と、火薬庫襲撃の当夜の模様を伝えています。 一方西郷は、その頃大隅半島の小根占(こねじめ)へ狩猟に出掛けていましたが、私学校生徒が政府の挑発に乗り、「草牟田陸軍火薬庫」を襲ったとの報に接した時「しもた!なんちゅうこつを!おはんら何たることをしでかしたか!」と、一言漏らしたと伝えられています。 この事件を発端として、約2週間後の2月15日には、鶴丸城下の練兵場に私学校生全員が集合し、熊本に向けて出軍、西郷は「こいもまた天命ごわす・・・」西郷軍は「今般政府に尋問の筋これあり」と熊本城まて攻めのぼっていきましたが、官軍の激しい反撃に合い、日向を経て鹿児島まで退却し、城山にたてこもりました。そして、9月24日官軍総攻撃に合い、城山は遂に陥落、西郷以下諸将は、悉く討死し、兵乱は全て終息しました。 この戦いにより我が草牟乍田も120から130棟あった民家が殆ど焼失し、焼け残ったのはわずかに5、6棟であったと言われており、衣食住、すべてにわたって困窮の極みに達したと言われています。 これ以降、士族たちの武力による低抗はあとを絶ち、我が国は統一国家として近代国家、富国強兵を目指す実質的な一歩を踏み出しました。 その意味で草牟田私学校生徒の火薬庫襲撃は、国内最大の内戦となり、「草牟田火薬庫跡」は、西南戦争勃発の地として、これからも語り継がれる歴史的にも大きな節目の事件現場てあったと思われます。