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大河「鎌倉殿の13人」のトークライブがあったとのこと・・・以前の佐賀の史跡巡りで、小城の千葉城跡や須賀神社で千葉氏の史跡を廻った事を思い出しますね。「鎌倉殿の13人」でのトークライブ 千葉常胤役の岡本信人さん
2022.06.07
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小雨の中、史跡巡りに行って来ました。
2022.03.05
須古城に来ました。33.17989, 130.10412正面が、須古城の小山です。右手が、須古小学校です。突き当りに登山口があります。此処は、20/09/24の記事で紹介済です。今回は、一泊で平戸方面の史跡めぐりに出かけました。出発時、休憩地で立ち寄りました。(城郭放浪記より)築城年代は定かではいが天文年間(1532年〜1555年)に平井氏によって築かれたと云われる。平井氏は少弐氏の一族で少弐資頼の二男盛氏の子経氏が平井氏を称したのが始まりとされる。その後、千葉氏の家臣となり有馬氏に備えてこの地へ配されたという。有馬氏に備えて杵島の地にいた平井氏は、大永5年(1525年)平井経則は有馬氏に寝返り、以後有馬氏に従って千葉氏と戦った。天文年間(1532年〜1555年)に須古城を築いて居城とし、支城として男島城と杵島城を築き弟に守られた。平井経治は永禄6年(1563年)から天正2年(1574年)までの間に、龍造寺隆信によって四度攻められ、天正2年(1574年)ついに落城し平井氏は滅亡した。その後、須古城は龍造寺氏の属城となり、天正6年(1578年)(一説に天正9年)に龍造寺隆信が隠居すると須古城へ移り居城とした。しかし、天正12年(1584年)龍造寺隆信は有馬・島津連合軍との戦いで討死し、須古城は隆信の弟龍造寺信周の居城となり、須古鍋島家の祖となった。須古城は須古小学校とその背後にある丘陵一帯に築かれている。 須古小学校背後の丘陵を高城と呼んで詰城とし、その周囲に水堀を巡らせた平山城であったという。現在小学校の東側に残るのが水堀の名残である。丘陵部分には平段が点在し、山頂背後の岩場は「弾よけ岩」と呼ばれている。西側の山腹には石積が残されている。周囲は、田畑で、此処だけ高台で見通しが良いです。さあ、平戸を目指して進みましょう。(追記230703)佐賀新聞より:=====須古城跡(白石町)を国史跡に 龍造寺氏の拠点、今秋調査2023/07/02 20:50小野靖久国史跡指定を目指す須古城跡=白石町堤画像を拡大する国史跡指定を目指す須古城跡=白石町堤調査検討有識者会議で現地視察し、町の担当者に調査内容などを指導する宮武正登佐賀大教授(右)=白石町の須古城跡画像を拡大する調査検討有識者会議で現地視察し、町の担当者に調査内容などを指導する宮武正登佐賀大教授(右)=白石町の須古城跡国史跡指定に向けた遺構調査の方法について協議した須古城跡調査検討有識者会議=白石町役場画像を拡大する国史跡指定に向けた遺構調査の方法について協議した須古城跡調査検討有識者会議=白石町役場 戦国時代、難攻不落の名城とされ、九州における近世城郭のルーツともみられている白石町の須古城跡で今秋、国史跡指定を目指す発掘調査が始まる。4年間の調査を基に報告書を作成し、2028年度の申請を見込む。西日本を代表する城郭遺構としての評価を得て、龍造寺氏が治めた北部九州の“首都”だった白石のアピールにつなげる。 須古城は築城時期は不明で、室町時代に須古周辺を支配した領主・平井氏の居城になった。1574年に平井氏を滅ぼした龍造寺隆信が改修を重ね、北部九州統治の拠点とした。現在の須古小の西側にある本体の周囲に虎口(門跡)や石塁、土塁、堀などを備え、複数の曲輪(くるわ)(区画)があったとみられる。東西560メートル、南北580メートルに及ぶ県内最大の平山城とされる。 県の中近世城館跡調査で重要遺構であることが確認されたことを受け、2016年に「須古歴史観光振興会」が発足。振興会は町に国史跡指定を目指すよう要望し、19年に承認された。 町は史跡指定申請のための調査研究を行う調査検討有識者会議(座長・宮武正登佐賀大教授)を22年に立ち上げ、文献研究や発掘調査の方法などを協議してきた。振興会も竹の伐採など城跡の整地やのぼり旗設置によるPR活動に取り組んでいる。 発掘調査開始は6月20日の有識者会議で決定。11月ごろから本体丘陵部分などを調査し、4年かけて遺構の規模や構造、年代を特定していく。27年に調査報告書をまとめ、28年に文化審議会に国史跡指定を申請する計画。 町教育委員会は「地域に親しまれてきた城跡で関心も高まっている。調査の状況や結果を共有しながら、国史跡指定を目指したい」と話す。(小野靖久)====
2021.03.10
須古城の本丸跡に登りました。33.179908, 130.104145かなり広く平らにされていました。「弾よけ岩」というらしいが・・、自然に出来たものではなさそうだ。他にも、巨石がある。須古城は龍造寺氏の属城となり、天正6年(1578年)(一説に天正9年)に龍造寺隆信が隠居すると須古城へ移り居城とした。しかし、天正12年(1584年)龍造寺隆信は有馬・島津連合軍との戦いで討死し、須古城は隆信の弟龍造寺信周の居城となり、須古鍋島家の祖となった。
2020.09.24
白石町の須古城跡に来ました。33.179908, 130.104113これから登ってみます。所々に、この様な表示板がありました。離れたところに、城の説明板が在りました。須古城址:戦国時代にはいると、我が郷土は、小城の千葉氏と高来の有馬氏にはさまれて、戦場と化すことが多かった。千葉氏は家来の平井氏を須古にとどめ、有馬氏に備えた後、平井経則は、有馬に組し杵島の地を支配した。平井氏は、居城を高城(のち隆城ともいう)に定め、城濠を南・北共に百町牟田まで延長して、周囲をかこみ、大手口から搦手に通ずる城廊には、一間の土堤を巡らし、尚南には二重濠になった枳?土手を築いて防備をかためた。 また搦手以西の百町牟田を、浅瀬でも、泥濘膝を没して渉ることができない地とし、これも利用した。 更に、西に杵島城・東に男島(小島)城を配備し、高城の両翼とした。 当時、九州の諸豪と相競いながら、努力の拡張をはかっていた龍造寺隆信は、有馬氏に応じていた、須古高城の城主平井経治をうつことにした。 かくして1563年から1574年にかけて、12カ年の歳月をついやし、平井経治の居城高城を落城させることができた。 隆信は、5州2島の太守として君臨していたが、有馬攻めが意の如く進まないので、急遽島原に出陣したが、地形を利用した島津・有馬の計略にかかり、惨憺たる敗北を喫し、隆信は戦死した。時に、1584年3月24日未の刻、行年56才であった。 隆信戦死後、舎弟龍造寺信周(須古鍋島家始祖・杵島神社祭神)は、須古城に入場、南・北外濠を埋め、百町牟田を排水し、溜池を築造して、良田百余町を開拓した。そしてこれが周辺地図。
2020.09.23
塚崎城に来ました。33.188917, 130.017089武雄鍋島氏の居城。元和の一国一城令によって塚崎城は廃城となり、御館として武雄鍋島家の屋敷が江戸時代を通じて存続した。塚崎城は御船山の北麓、現在の武雄高校の敷地を中心に築かれていた。御船山の山麓の高所に本丸を置き、北に二ノ丸、三ノ丸、御屋敷を配していた。しかし、本丸は住宅地、二ノ丸、三ノ丸、御屋敷の辺りは武雄高校として造成され、遺構はわずかに石垣や竪堀が存在しているのみである。本丸の一部は武雄高校の西側にある住宅地の一番上にある公園となり、そこに標柱がある。また石門と呼ばれる石垣造りの虎口が西の深遠寺の川沿いの北東に現存している。そして、近くの図書館に寄りました。33.189224, 130.023759おいしい珈琲を頂きました。
2020.09.22
武雄市の御船山楽園に来ました。33.182648, 130.016207紅葉の時期です。「武雄領主は、現在の武雄高校の位置にあった塚崎城(武雄城)を居城としました。背後には、神功皇后が新羅からの帰りに御船をつながれたことに由来するという武雄のシンボル、標高210メートルの御船山がそびえ立ちます。その御船山の断崖を借景に、茂義が約3年の歳月をかけて1845(弘化2年)に完成させたのが御船山楽園(旧萩の尾園)。15万坪を誇る壮大な池泉回遊式庭園です。」
2020.09.21
築地反射炉跡(日新小学校)に来ました。33.251344, 130.283842鉄製24ポンドカノン砲、が作られた。『 佐賀藩鋳造鉄製24ポンド砲 わが国最初の鉄製カノン砲 復元 佐賀藩は、寛永19年(1642)から長崎港の警備にあたってきたが、文化元年(1804)露国使節レサノフの来航、同5年(1808)イギリス軍船「フェートン号」の長崎港侵入があり、長崎港の警備はそれ以来緊迫した空気につつまれた。 鍋島直正が10代藩主につくと、これに対処するため長崎港台場の増設と洋式大砲の設置を痛感し、嘉永3年(1850)築地(今の日新小学校)に反射炉を築き日本で最初の鉄製大砲の鋳造に成功した。 嘉永6年(1853)ペリーが来航すると、幕府は江戸湾防備のため品川に台場を新設し大砲を佐賀藩に注文した。 そこで佐賀藩では、多布施に公儀用の反射炉を増築し(佐賀駅北口にその模型がある)安政3年(1856)までに24ポンド砲25門、36ポンド砲25門を納めた。さらに150ポンド砲3門を幕府に献上した。又当時世界で最高の技術を要するアームストロング砲を佐賀藩では元冶、慶応年間に3門鋳造することに成功している。 この大砲は、この時品川砲台に備えられたものの一つであって、その頃のわが国科学技術の最高水準をうかがうことができる。 昭和52年12月12日(1977) 佐賀県機械金属工業会連合会 』名 称 築地反射炉跡: 佐賀藩は、寛永18年(1641)以来、幕命によって福岡藩と1年交代で長崎警備の任務についていた。その装備は、諸外国と比べると薄弱であった。 10代藩主鍋島直正は、防衛の任務遂行を懸念し幕府にその旨を献策したが受け入れられなかった。かねてから西洋文化に関心を示していた直正は、嘉永3年(1850)、この地に、藩独自で洋式反射炉を築造し、築地大砲鋳造所を設け、長崎台場の防衛用大砲を製造した。 嘉永6年(1853)、その威力を幕府から認められ、大砲の鋳造依頼があったので、多布施に新たに反射炉を築き、公儀石火矢鋳立所を設置し、幕府向けの大砲を製造した。 嘉永5年から慶応年間までに佐賀藩が製造した大砲は、あわせて271門におよんだ。 現在は、反射炉の模型のみが昔の面影を残している。
2020.07.21
古賀銀行跡が佐賀市歴史民俗館になっており、隣が旧古賀家で、特別展示があっていた。33.2541, 130.30706展示のテーマは、弘道館(藩校)だった。葉隠れについての説明があった。さらに旧街道をさらくと、三味線店があった。店先には、恵比寿様が飾られている。
2020.07.20
街歩きガイドさん、の案内です。長崎街道の道標(呉服町): これは長崎街道に設けられた江戸時代の道標です。人差し指で方向を示し、「ながさき道、こくらみち」と街道の両端の地名が刻まれています。また、隣には「右おふくわん道」と刻まれた小さな道標もあります。江戸時代の街道にあった一里塚の道標のほとんどが姿を消してしまった今日では、この道標は、佐賀城下に現存する3基の道標の一つとして貴重なものです。と、「道しるべえびす」旧長崎街道です。長崎街道(ながさきかいどう)は、江戸時代に整備された脇街道の一つで、豊前国小倉(福岡県北九州市小倉北区)の常盤橋を始点として、肥前国長崎(長崎県長崎市)に至る路線である。57里(約223.8km)の道程で、途中に25の宿場が置かれた。佐賀藩本陣跡: 佐賀城下では、願正寺と称念寺が仮本陣とされていましたが、寛政12年(1800)に呉服町の御用商人、野口恵助の私邸を改築して本陣としたと記録が残っています。 この本陣には、街道を旅する大名や旗本・幕府の役人など宿泊しました。居酒屋あぶさん例のマンガの「あぶさん」のモデルになったそうです。旧古賀銀行残されている様です。見学も出来そうでしたが、入りませんでした。
2020.07.19
博覧会の関連行事として、市内巡りに参加しました。最初に、佐嘉神社です。33.251215, 130.302652佐賀藩10代藩主鍋島直正と11代藩主鍋島直大を祀る。直正は藩政改革を行い、大隈重信・江藤新平らの人材を育成した。直大は戊辰戦争で官軍として戦い、明治2年には版籍奉還を申し出た。(Wikipedia)境内の松原神社です。大楠が有名です。松原の大楠: 楠の古木は佐賀県の銘木に指定されていて樹齢約650年と推定されており、保存樹木として指定されています。また、この地域の街中の景観として大変美しく、都市景観賞を頂いた景勝地です。大楠の古木の美しさと600年を超える長寿から 「開運長寿・身体健全」 を戴こうと手を合わせる方がえず、信仰とさえなっています。と説明板に書かれています。(九州旅倶楽部)宝くじに効能のあるえびすさんだそうです。
2020.07.18
維新博覧会のパンフレットを照会します。主に、「佐賀の七賢人」の事が中心でした。
2020.07.15
佐賀で維新博覧会があり出かけました。33.249515, 130.301847現・市村記念体育館であってました。内部は写真不可でした。入場記念写真です。会場前の「こころざしのもり」に、アームストロング砲がありました。
2020.07.14
佐賀城に来ました。33.24539, 130.30328最初に、直正公像に挨拶本丸御殿が再現されています。
2020.03.03
龍造寺隆信生誕地に来ました。33.24284, 130.30508記念碑が建っています。
2020.03.02
大隈記念館に来ました。33.24795, 130.30882佐賀が生んだ、大隈重信の記念館です。本人の書です。そして、早稲田大学を作りました。そして、此処には旧宅が在ります。
2020.03.01
佐賀城近くの万部搭に来ました。33.24883, 130.30339万部搭: 石塔群は、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂から代々の藩主または嫡男が自ら願主となって、藩の安穏と領民の息災を祈願し、法華経ー万部読誦の結願石塔として建てたものである。このならわしは、永正2年龍造寺家兼が執行したのが最初である。(後略)ずらりと並んだ、万部搭この一基毎に、多くの僧を集めて、一万回の読経が行なわれたのだそうです。
2020.02.29
小城藩邸跡に来ました。33.29018, 130.19632藩邸正門の石橋です。修復工事中でした。そして、岡山神社です。
2020.02.28
千葉城の対面の、村岡屋羊羹資料館に来ました。33.301428, 130.204327有名な、「おぎようかん」、そして「村岡屋の羊羹」です。この写真は、いろんなようかんの展示です。資料館には、羊羹の製造工程や歴史が照会されていました。外観の写真。以前の写真を参考に。
2020.02.27
小城の千葉城跡に来ました。33.30273, 130.20624此処は、山城です。城山の下からは、こうなっています。中腹に、須賀神社があり、急な石段です。文禄の役で、秀吉が腰掛けたといわれる石が在りました。説明、お読み下さい。
2020.02.26
御館の森に来ました。33.29049, 130.26352右先に見える、意外に狭い場所です。
2020.02.25
あらためて、史跡巡りのスケジュールを示します。という事で、直鳥城跡へ来ました。33.27241, 130.37022今回の城跡は、筑後平野の中ですので、平城で、水堀を巡らした作りです。ここ、直鳥城跡は堀が残ったまま公園となっていました。熊本の城跡の様な石垣跡も在りません。石も採れないところの様でした。城の説明文です。よくお読み下さい。
2020.02.24
蓮池城跡の蓮池公園に来ました。33.24585, 130.35932この看板は、蓮池公園にあったものですが、いま再確認すると、右下に「蓮池公園・現在地」となっていますが、全く位置が違います。どういう地図だったか??蓮池藩8代藩主の歌碑: のどかなる 春のすがたを 力なき 柳の糸に 見する 朝風 (雲そう)案内の会長さんから、説明文を貰いました。
2020.02.23
続いて、三重津海軍所跡に来ました。33.20773, 130.34011公園化されており、記念館もあります。ここでは、VRメガネを借りて、その場所の説明を見聞する事が出来ます。番号の場所で、説明を聞きながら、そこから見えた景色を見る事が出来ます。それぞれの発掘址には説明板が設けられています。外の見学が終り、記念館の中では、パノラマスクリーンで海軍所の説明を聞く事が出来ます。プラネタリゥムでは有りませんよ。
2020.02.22
荒尾史学会の史跡巡りで、佐賀に出かけました。最初に、佐野常民生誕地に来ました。33.20615, 130.33742佐野常民先生記念碑の由来: 日本赤十字社の創設者佐野常民先生は文政五年(1822)十二月二十八日佐嘉藩士下村充実贇の五男としてこの地早津江に生まれた。天保三年(1832)十一歳の時藩医佐野常微の養子となり藩主より栄壽の名を賜った。 長じて藩校である弘道館に学び、その後、江戸の古賀侗庵、京都の広瀬元恭、大坂の緒方洪庵等につき、さらに藩命により江戸の戸塚静海、伊東玄朴の塾に入って漢学、医学、蘭学、物理学、化学、外科術、冶金学などを修め、また長崎において航海、造艦、造船、砲術などを伝習した。文久三年(1863)三重津に汽罐製造所を建てて佐嘉海軍の創設に努力し、明治維新となり帝国海軍が創設されるやこれに尽瘁した。 明治十年(1877)西南の役が起こるや、その惨状を見るに忍びず自ら熊本に赴き、征討総督有栖川宮熾仁親王にお許しを得て同年五月大給恒らと共に博愛社を創立した。 明治二十年(1887)博愛社を日本赤十字社と改称して万国赤十字社に加盟した。佐野先生はその初代社長となり社業の振興に日夜努力し社名を内外にとどろかせたが同三十五年(1902)十二月七日齢八十歳で没した。 晩年元老院議官、元老院議長、大蔵卿、枢密顧問官、農商務大臣等国の要職を歴任し、同二十八年(1899)伯爵を陞授された。また龍池会(日本美術協会の前身)等をつくって、日本美術工芸の振興育成にも力を尽した。先生は本県七賢人の一人であり、真に日本の偉材ということが出来る。日本赤十字社は大正十五年(1926)十一月創立五十周年を記念して生誕のこの地に記念碑を建てた。 昭和四十三年十一月 日本赤十字社佐賀県支部 日本赤十字社の創設と言うと、西南戦争の臨時病院として木の葉や玉名女子高が創設の地となっています。
2020.02.21
一度戻って、自転車をレンタルし、出かけました。先ず、広沢寺で、加藤清正が持ち帰ったといわれる、蘇鉄を見ます。 33.531078, 129.870595ずいぶんと大きく育っていました。さらに真田昌幸の陣屋に。 33.538232, 129.861501続いて、生駒親正の陣跡です。 33.549729, 129.855084この様に、次々と色々な陣屋が散らばっています。日本全国から此処に集結していた事が判ります。
2019.11.07
引き続き陣跡めぐり。 稲葉重通・掘秀治の陣を見れる場所を通りました。そして、堀秀治の陣跡に来ました。 33.523589, 129.861935建物の礎石が残っています。木村重隆の陣跡に来ました。 33.527200, 129.864380木下延俊の陣跡に来ました。 33.527492, 129.870868
2019.11.06
翌日朝から「陣跡めぐり」をしようと思います。先ず、前田利家陣屋の森に、オルレ道を歩く事にします。 33.528679, 129.874020陣跡めぐりのパンフです。前田利家陣屋に来ました。33.527219, 129.873406陣屋跡の説明板があります。道の途中で、長宗我部元親陣跡 33.524143, 129.874145 や石田三成陣屋跡 33.515392, 129.880469 が見える所を通りました。
2019.11.05
本丸方面へ目を移すと、要所々を崩された石垣が。玄海にちらばる大名陣屋跡山里口:けっこう綺麗に残っている。ついでに・・浜野浦の棚田展望台:明るいうちに見に来ました。 33.489273, 129.847337
2019.11.04
本丸周りを巡りました。石垣が崩されています。島原の乱で城跡を利用されない様に崩したと聞きました。平成11年度の発掘調査により、合坂(あいさか:石垣を登り下りするための石段のひとつ)の最下段で、軒丸瓦や丸瓦を重ね合わせた瓦積みが整然と6列並んだ状況で確認されました。これら瓦群の上には、石材や裏栗石が堆積していたことから、瓦を置いた後に、石垣や石段を破却したものと推定されます。 一国一城令(1615年)や島原の乱(1637年)などとの関連が推定されている「名護屋城の破却を考えるうえで重要な資料のひとつです。
2019.11.03
VR案内のタブレットを借りて、天守台を目指します。 33.530977, 129.868859先ず、博物館から天守台を望みます。大手門を目指して登ります。桜の時期でした。本丸より、展望します。名護屋大橋方面(東方面)です。天守台説明板。 ここでは、焼きもので案内板が設置されています。西面の展望。案内板は各大名の陣屋が示されています。
2019.11.02
唐津の名護屋城博物館に来ました。 33.527802, 129.870178名護屋城跡敷地内にあります。城跡に登る前に博物館で学びます。この地域の古墳時代からの環境です。他にも、色々と、特に名護屋城についての説明も詳しくあります。
2019.11.01
小城の千葉城跡へ来ました。 33.302750, 130.206237この一帯を領した千葉氏の山城跡だそうです。山頂は公園として整備されており、立派な展望台がありました。千葉城址展望台へ、しだれ桜が立派です。詳しくは、こちらをお読み下さい。
2019.10.31
小城羊羹の村岡屋の小城羊羹博物館を見学。 33.301383, 130.204381左がお店で、右が博物館です。見学自由でした。打物菓子と言われるものの木型だそうです。館内には、羊羹作りに関する色んな資料が展示されていました。外に出ると、ずいぶん急な一本の階段が・・・須賀神社と云うらしい。その先に千葉城跡も在るそうです。より路してみましょう。
2019.10.30
「シチメンソウ」を見に「干潟よか公園」に来ました。 33.173878, 130.270352正面に多良岳、左端に雲仙岳。海岸手前のうっすら赤い帯び状がシチメンソウ自生地です。盛りを過ぎてしまったようです。潮が引いてガタがひろがっています。平成27年のラムサール条約登録との事で、荒尾干潟が平成24年ですから、3年後の様です。シチメンソウの説明文降りてみましょうこれがシチメンソウです
2019.09.29
諸富町の諸富鉄橋展望公園に立ち寄りました。 33.216453, 130.359669ここは、徐福の上陸地ということで、徐福像がありました。さらに、昇開橋を渡れそうです。以前は、この反対側から遠く望んだだけでしたので、渡れるのは嬉しいです。ここから橋に入ります。当然、元は鉄路だったんです。ついに中央部の昇開部分に来ました。ちょうど、一番上まで上がっていた橋が、どんどん下がって来て、あと少しで閉まるところです。橋がつながって、この後、対岸まで歩いて行けました。ラッキー!!
2019.09.28
三重津海軍所跡に来ました。 33.207786, 130.340105遺構跡と説明が有りますが、川沿いの広場です。ミュージアムとVスコープを借りて当時の様子を見る事が出来ます。佐賀の維新時の技術立国の中心となった場所の様です。
2019.09.27
佐賀空港に来ました。 33.154407, 130.303027レストランから眺められます。隣の「佐賀空港公園」に、あのYS11が展示されています。1998年までだったんですね・・・残念
2019.09.26