240114偉人・一木斉太郎・市史講演会レジメ
そういえば、2020年の荒尾市主催の市史講演会で、講演されていました。写真もありました。第8回荒尾市史講演会 2020.2.8滔天が弄鬼斎と呼んだとんでもない男 一木斎太郎猪飼隆明はじめに宮崎滔天「乾坤鎔盧日抄」「乾坤さへ溶かす慮なればこそ人の心も説けざらめや。盧の主人弄鬼斎(一木斎太郎) こそは、ゲニ手八丁口八丁の達者者。頭と膽とは、更に二八十六丁を具ふる千手菩薩の 出来損ね。半身不随の病躯を十二畳の大広間に横へて、日毎に出入する政客、博徒、官員、僧侶、浪人、商贾、山師、高利貸乃至学者、書生、壮士、芸者、医者、サテは、乞食、狂人、うば、嬶鼻、明珍に至るまで、類を擇ばず数を厭はず、来者を迎へ、往者を送 り、世間を他所の談笑自適、巧く人の胸底を衝きて其秘密を機微の間に漏らさしめ、妙に四角四面なる男女の外皮を剥ひで不治不識の間に赤裸々の動物たらしむ。・・・」無賴庵(横山健堂) 「肥後人物評論 一木斎太郎」(『日本及日本人』明治40年11月号)「肥後に於ても東京に於ても、一木斎太郎と云へば大悪漢の代名詞の如くに思惟せらる、 怪しむこと無し、彼は天下に公表して悪事を敢行す、而して其御面相も亦甚だ悪人たるに適す・・・シカモ一たび其人に接するや、十二分の警戒を加へながらも、何時ともなく自ら知らずその薬籠中のものとなり了る。・・・」紫垣隆『大凡莊夜話』「児玉源太郎が台湾総督、後藤新平がその下に民政長官の頃、私をこの二人に紹介したのが其日庵杉山茂丸であった。其日庵に引き合わせたのが宮崎民蔵、寅蔵兄弟の親戚で、一世の怪物一木斎太郎である。一木は順当に行けば大臣、宰相にもなり得る器であったが、余りの才能に禍ひされて、単に奇行放埓の悪名を残して一生を終った。実に惜しみても余りあることである。しかし私はこの一木の感化を受けたことを、今日に至るも身に沁みて感激致している。」Ⅰ 一木斎太郎の略年譜安政元(1854)年4月7日 格次(武範 立花藩修道館士藩兼藩財務顧問)、母チトの長男 として出生。母チト(天保7年9月14日~明治37年4月27日) 文久2(1862)年 父格次、三池修道館教頭職を辞職 小山信胤の孚斎塾(長洲町宮町) 福田春蔵の翼々舎 (玉名郡肥猪町) に入塾明治7(1874) 年7月3日 伯祖父福島春岱死去 明治8(1875)年4月26日 植木学校創立。斎太郎入学 明治9(1876)年10月24日 塩屋町下宿で、宮崎八郎と静観し、のち見学する 「乾坤鎔盧日抄」『二六新報』(明治34.10.31~12.27『宮崎滔天全集』第4卷 所収)に挿話明治10(1877)年2月15日 西南戦争起る。協同隊に最年少の一人として参加 同年4月7日 八郎、萩原堤で戦死。明治11 (1878) 年 上京して、兆民の仏学塾に入塾 帰熊して相愛社に入る明治12 (1879)年 鹿児島に菜英社を起こし、週刊『錦江新誌』編集長になる。 「輿論の精華とおもわれるものを集編して社会の弊癖を矯正する」ことを目的に月五 回発刊の小新聞」(『鹿児島県史』)明治13(1880)年6月25日 大分鶴崎で、禁令の富くじ興行を行う明治15(1782) 年2月 長崎で政談演説会に2回登壇明治16 (1883)年9月26日 偽札作りの容疑で入獄 「紙幣買造余聞」『紫溟新報』(9月30日付)明治19(1886) 年秋 熊本に、「明法審理館」設立。一富豪・金貸し征伐 明治21~22年 長崎で「製糞社」明治23(1890) 年 熊本随一の名妓「手遊」 (おもちゃ) を誘って東京へ逐電 犬養毅・大隈重信・加藤高明・大木喬任・陸奥宗光らの名士と交流明治24(1891)年 九州鉄道敷設一海岸線経由說主張明治25(1892)年3月4日 妻房(鷲尾家)との間に長女鶴(タズ)生まれる (~大正14年9月23日) 房との結婚が何時なのか判然としない。房 (明治4(1871)年~昭和33(1958) 年)は、鷲尾 隆緊(右近衛権中将 四条流 180 石 高野山举兵に参加)の長女。斎太郎 と別れた後(鶴 2歳の時) 子爵三室戸和光(1842~1922 伊勢神宮宮司)と再婚。明治30(1897)年 足尾鉱毒事件で、田中正造に難民支援団体の結成を促す 明治33(1900)年 足尾鉱毒事件を機に協同親和会を樽井藤吉・稲垣示等と組織 (社会問題を 追求する組織)(赤松克麿『日本社会運動史』岩波新書)明治38(1905) 年 京都本願寺の法律顧問に転身。 宮崎民蔵の土地復権同志会に参加。新美卯一郎と接触 明治40(1907)年11月7日 「社会問題研究会」 大石善喜・民蔵・山內順平・古閑一雄・一木 鶴など、馬場も明治40(1907)年11月21日 長洲町1419番地ノ1の馬場千之の長女鈴子と結婚 明治43(1910)年1月16日 一木斃れる、51歳 北海道に渡り、原野払下げを大隈に説いて成功したが、その事業経営を放棄し、タイ、 朝鮮を放浪、帰郷中胃がんにて病死。滔天は彼を、弄鬼斎・弄鬼子と呼んだ。捨鉢で 浮世と人を弄んだ謂である。Ⅱ 「神童」斎太郎、神風連まで①父格次無賴庵(横山健堂)「肥後人物論評」『日本及日本人』(第466号 明治40年11月)「彼の父は近郷にて名を知られたる漢学者にして夙に一家の見識を有し、筑後柳川公に聘せられって進講となり、殊に命を奉じて経済録二十余巻を著はして是を実地に応用し、以て紊乱せる財政を整理して、功を立てたりしが、天仮すに年を以てせず、斎 太郎の幼年時代に病没したり」②「神童」の時小山信胤の孚斎墊(長洲町宮町) 福田春蔵の翼々舎(玉名郡肥猪町) 塾生頭の鈴木均は、斎太郎のことを 「色が黒く眼の鋭い腕白好きな子供であり、いつのまにどこで憶えたのか四書五経の素読、詩文の朗読を堂々とやり、いつのまにどこで憶えたのか、先生も舌を巻くほどの憶えのよい明晰な頭脳をもっていた。若し、文章の解釈にあいまいな所があると、どこまでも突っ込んで来る。これが神童というものかと思った」(福島作蔵氏稿) ③植木学校(熊本県第五番中学校)ー学校であり民権結社 松山守善「自叙伝」「(宮崎八郎が守善に) 僕らの学校設立のことに尽力してくれ、平川惟一・有馬源内などと植木に学校を設立し、同志を糾合する筈にて、先日願書を県庁に出しおきたけれども小橋元雄(学務課中属) よれもれ聞くところによれば、何か僕らに異志があるものの如く考え、許可延引しおるよし、君は安岡県令と知人なれば、早く許可するよう周旋を頼むとしきりに相談す。余も心機一転し宮崎に同意し、まず小橋に庁内の事情を聞き、安岡に面会し、熊本は頑固の気分におおわれ居れば、不肖ら不完全ながら植木に文明的な中学校を設立する計画中なれば許可を願うと述べたれば、安岡諾し、日ならず許可を与え、幾分か公費を給与することになった。」 教師は、八郎・平川惟一・広田尚・ 麻生直温、そして岡松甕谷 生徒一田中賢道・月田道春・一木斎太郎・高田露ら50名ほど 集まった民権家ー崎村常雄・中根正胤・松川杢造ら「民約論」、「万法精理」「日本外史」「日本政記」「十八史略」「文明史」「万国公法」 守善「夕刻になれば撃剣又は戦争の時の負傷者死屍を運搬する稽古なり、実に一種奇怪な学校であった。」④神風連の反乱に遭遇一宮崎滔天 「乾坤鎔盧日抄」(『宮崎滔天全集』第4巻)「僕はアノ九年の神風連の騒動を想ひ起すと、今でも足がブルブル顫へさうだ。 ・・・アノ時は僕は塩屋町の八郎が下宿屋に行っておった。丁度同志の先輩が四、五人も来て居って、一升徳利を据えて牛肉のゴチャ煮でやっとる慮であった。・・・スルと火事だ火事だと云ふ騒ぎだらう。僕は火事よりも牛肉の方を熱心にやってをったが、ハ郎が障子を明けて見れと云ふから明けて見た。スルと四、五ヶ所に火の手が見ゆる、 ・・八郎は書類を焼く野満は駆出す、さうして他のものはウロウロ然・・・神風連と云へば・・未曽有の頑固党だらう。シテ此方は自由民権論の主唱者で吾々は其部下だらう。平日平常でさへも暗殺位の恐はあるものを、酔狂にも程があるじゃないか、是から見に行ふと云ふ理屈だらう。・・洗馬橋へ差懸ると君、白鉢巻に股立とって血刀を提げた若武者の二人づれ、キョロキョロ僕等の方を見て、オイオイ、八郎がゆきをると、互に私語きをるじゃないか、僕はもう手も足も顫へて顫へて何時斬り懸けられるかと思ってる。処が八郎は平気の平左だ・・種田少将の妾宅の前へ出ると、今しも其家より血刀提げた 二、三の人が出て来をる。モウやられたナ、行かなくても好いと八郎が云ふので、・・・ 田中賢道の宅を見舞ってやれと云ふに、城郭に従いて新屋敷の方へ歩を進むると、彼処此処に士官の死骸が暖かなる血汐の中に転んでをる。・・・」Ⅲ 西南戦争に「協同隊」で参戦そして八郎の死本営付参謀長 宮崎八郎 一木斎太郎は、第一分隊(20名)に、田中賢道・築地具哲らと同じ(寺田正一編著『西南戦争協同隊士の研究』 1994年)2月22日の島崎口の戦闘に参加 この時、硯川五六郎が、破裂弾の破片が横腹を貫通してたおれる。腸が露出して鮮血にまみれた。斎太郎は彼を負ぶって後退。硯川は斎太郎に介錯を頼んだが、斎太郎には人の首は斬れない、そこで近くにいた薩兵にたのんで介錯をした。段山口にいた八郎も負傷。八郎は、4月6日、八代は萩原堤で戦死。その後、城北へ転戦、山鹿で自治制をしく。8月17日協同隊長井村で投降。9月12日仕出の斎太郎の福島養拙宛て書状のこと、9月22日の養拙の日記 「一木斎太郎、延岡病院から此方へ来状あり、・・・金子六十円贈り呉れ候様取り計い頼 来れり。宮崎八郎戦死之事有之嘆息之次第に候事」このあと、宮崎監獄へ。高田露・宗像政らとともにIV 民権家一木斎太郎①相愛社に参加、そして脱退1878(明治11)年5月 相愛社結成。松川杢造・ 池松豊記を中心に『熊本新聞』(明治12年8月24日)「相愛社員一木斎太郎氏は爾来大阪愛国社の事故に付憤を発し退社」を願い出た。②心配する親族?「福島養拙日記」8月12日 「昼過ぎ、宮崎正誼・築地貞夫来る。茶話のあと、両人は斎太郎の身上のこと噺合うこと有りと態々来る。一通り談判した末、薄暮荒尾沾行。長蔵は大谷へ出で留守也とのこと」8月26日「斎太郎のこと、荒尾宮崎へ行く。長蔵と三人内話、暫して酒出寛ぐ。陰六時頃に帰る。」8月28日「十時頃斎太郎来る。自分は認物あり。斎太郎は三時間許り部屋で一睡。宮崎弥蔵も操人形芝居を見に来る。」兆民の仏学塾に入ったのは、この後か?→『錦江新誌』 斎太郎の「奇行」 が見え始めるのはこのころからか?「何カ月も入浴しないでも平気でいるので一木の身体の皮膚は一種の変質をきたしていた。兆民は驚いて 「あいつの体は心理学上疑問だ」 と首をひねったという。」一方「彼には非凡な策あり、略あり、胆あり、智あり」 「彼自身の特性である」ともしかし、1882(明治15)年2月12日、14日の長崎での「政談演説会」で、熊本相愛社・立憲自由党などが、ここで、松山守善・樽井藤吉らとともに、末弟の仁九蔵も演説。演題は「先憂而憂」 同年7月18日 山鹿新町での演説「共和政治ニアラザレハ完全ナル憲法ハ成立セザルカ」 聴衆900人V 「悪漢一木」 「不敵の暴漢」の名①明治13 (1880)年6月25日 大分鶴崎で、禁令の富くじ興行を行うこの事件は、山鹿郡山鹿町平民鶴田德三(27歳7カ月)が、「玉名郡牛水村士族一木斎太郎ノ発意二同ジ、大分県大分郡鶴崎町神護寺外壱ヶ所ニ於テ富興業致ス科」(明治6年12月23日布告「富興業禁令」違反)で、「懲役四十日」(罪一等を減じ「贖罪金式円弐五銭」)に処せられた事件②明治16 (1883)年9月26日 偽札作りの容疑で入獄 「紙幣贋造余聞」 『紫溟新報』(9月28、30日、11月7日付) 一獄中で法律学を猛勉強 明治19(1886)年秋熊本に、「明法審理館」設立。一富豪・金貸し征伐VI 社会問題への関心渡良瀬川(足尾鉱毒事件民蔵の土地復権同志会社会問題研究会VII 斎太郎の書き残しから①「与下田女史書」『熊本評論』第13号(明治40年12月20日) 明治39年4月華族女学校、学習院と合併。学習院女学部 初代女学部長=下田歌子 院長=乃木希典(陸軍大将)「頃日女史辞表の新音を耳にす、実に女史の為め否、我国巾幗社会の為欣悦措く能はざる也。・・・蓋し良妻とは夫に妄従する厨婦の称にして、賢母とは嬰児を養育する乳婆の別名也。夫れ人類の万物に起出する所以のものはじゅうあるが為也。権利あるが為也。・・・嗚呼神は天下の子女をして男子付属物品に供せし乎、将男子の玩弄品に贈与せし乎、抑も亦育児の褓母器に製作せし乎、女の士に嫁す人々の自由也、嫁して育児の責に任ず固より免れざる所也、而れども其嫁するや天稟の自由権利悉く拋って夫に捧ぐ可しちは大に天理に背反し居れり、是れ吾人人道主義者の常に憤慨する所也。」②「熊本自由民権史」(『熊本評論』第1,2,4,6,9号 明治40年6月20日~10月20日)「我が熊本県下に自由の生まれしは、今を去る三十有五年、恰も司法卿江藤新平君が佐賀に帰りて、革命の旗を翻したる前年なりし。自由を産たる母は宮崎眞卿とて、筑紫有明湾の浜に荒尾てう一小村落あり、眞卿は此の村の片山里大谷とうふ山水明媚の郷に生まれたり、天性温厚にして沈黙寡言村内神童の名あり。」③斎太郎の鈴子宛の葉書イ、馬場鈴子宛 鈴子—玉名郡長洲町 斎太郎—京城停車場前 桜旅館「昨夜九時乗込十時出帆、□海中雨中二不似合ナル穩波、今朝九時釜山着。十一時汽車二乗り、九時安着。運中暴風雨ナリシモ電光ノ如クシ而・・・九時コロ着セリ。汽車力京城二着シタル時ハ雨止ミ風収タリ、天恵々々(尚々書)御父上始メ祖父様ニモ宜敷」口、一木鈴子宛、 鈴子—玉名郡長洲町 明治41年11月17日 一木燐水一神代丸内「ヲハヨウ号ハ明日ニ延ヒタレハ神代丸卜云フ船二三時二乗リタリ天気少敷曇タルモ海上波穩カナリ。島氏ト二人同行ス、長崎連中八昨夜出発セシ由。今五時出帆卜云えハ遅トモ六時迄ニハ出帆スルナラン。船中ハ琵琶歌ヲ買ヒ求タレハ消日ハ大丈夫也。 釜山ヨリ更二報知ス可シ。留守中ハ堅ク家憲ヲ守リ課業ヲ勉強ス可シ。皆々様二宜敷。一月十七日午後三時」八、一木鈴子宛 鈴子—熊本市外池田五七〇 明治42年7月24日 一木燐水一長崎今鍛冶屋町馳川「当地二而大苦戦中、明後日島原へ参り候間、島原ヨリ更二報知ス可シ。都合二依レハ小濱温泉ニーヶ月滞留致度也。其積二而何事モ辛抱シテ居ル可シ。」おわりに