161207和水・菊池・国衆一揆巡りの会(3)・坂本城・城村城
和水町の坂本城へ。33.110819, 130.621236登山口までで諦めました。登り口は、33.1085, 130.62052 です。標識が立っています。下の説明板は、もっと下の道路脇にありました。33.10302, 130.62259城跡は坂本集落のほぼ真北にあって、城山と呼ばれる山稜の末端部(標高差役280m、集落との比高差約190mに位置しています。(中略) 天正7年(1579)には辺春親貞とその子親行が在城しており、親行は、田中城主和仁親実の姉を妻としたことから、天正15年(1587)の肥後国衆一揆の際は、和仁一族と共に田中城に籠城しました。しかし、辺春氏の裏切りで田中城は落城してしまうことになります。 西吉地字村の輪に菊水線沿いの水田地帯の一画には、辺春氏の供養塔がひっそりと建っています。続いて、城村城へ。 33.04598, 130.67545 城村城は、「肥後国誌」によると、菊池氏三大家老(城・赤星・隈部)の一人である城氏代々の居城といわれています。 天正15年(1587)、佐々成政は、検地をしようとしました。それに反抗したのが隈府城の隈部親水です。親水は成政に攻められ、隈府城は陥落し、息子の親安のいる城村城に生き延びます。城村城には、付近住民総勢約1万5千人が籠城し、8月に成政が攻め込んでくると、激しく抵抗しました。一揆は肥後全土に広がり、この戦いを肥後国衆一揆と呼びます。城村城は最後まで落城せず、隈部父子は、12月に成政側の和睦に応じる形で城を明け渡しました。次へ続きます。