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カテゴリ:哲学・思想・文学・科学
▼ 大江健三郎『沖縄ノート』をめぐる裁判において、山崎行太郎氏は、保守系評論家でありながら、大江健三郎支持に回って健筆をふるっている。 これが、実に面白い。
大江健三郎を擁護する。女々しい日本帝国軍人の「名誉回復裁判」で…。 誰も読んでいない『沖縄ノート』の記述。…大江健三郎を擁護する(2)。 大江健三郎は集団自決をどう記述したか? 曽野綾子の「誤読」から始まった。大江健三郎の『沖縄ノート』裁判をめぐる悲喜劇 ▼ 何よりも、大江健三郎の文学に批判的でありながら、文学を守るため、一人、孤高に立ち向かうさまがいい。 東方会の中野正剛は、東条政権に立ち向かい、かなわず自害するが、その座右の銘は「一国は一人を以って興り、一人を以って亡ぶ」(蘇洵)であった。 保守思想家たるもの、かくあらねばなるまい。 なにより、大江文学を考えさせてくれるところが、またいい。 ▼ ネットを検索すると、大江健三郎は、北朝鮮帰還事業のドラマを見ながら「私には帰る朝鮮がない」と涙した、という。 すごいなあ。 ベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体」を唱える何十年も前に、その感覚を「言語化」している大江。 大江健三郎は、権威っぽいのと、生来の文学嫌いで全然読んだことがなかった。 本来なら大江健三郎の悪評を広めるための裁判で知らされた、大江健三郎の偉大さ。 つくづく、塞翁が馬、だなあ、と考えさせられてしまった。 ▼ そうこうするうちに、山崎行太郎と池田信夫に戦線が飛び火。 これらの論説を池田信夫が批判。 これに対して山崎行太郎が、池田信夫君、頭は大丈夫か?で再批判。 ▼ これに対して池田信夫氏は以下の反論を出した。 大江氏の弁明 (池田信夫) 2007-11-22 16:49:00 山崎行太郎という自称評論家が、予想どおり「反論」しているが、対談記事ではゲラをチェックする人もいるし、しない人もいる。曽野氏は非常な高齢だから、校正は目に負担なので、おそらくざっと見ただけだろう。他のメディアでは正確に表現されている。 http://sankei.jp.msn.com/life/education/071023/edc0710230343000-n1.htm So what? この誤字が論旨とどういう関係があるのかね。きみの誤字脱字だらけの記事こそ、ちゃんとチェックしたほうがいいんじゃないの。こんなイナゴ並みの無名評論家の話はどうでもいいが、重要なのは11月20日の朝日新聞の「定義集」というエッセイに書かれている大江氏の弁明だ。 <私は渡嘉敷島の山中に転がった三百二十九の死体、とは書きたくありませんでした。受験生の時、緑色のペンギン・ブックスで英語の勉強をした私は、「死体なき殺人」という種の小説で、他殺死体を指すcorpus delictiという単語を覚えました。もとのラテン語では、corpusが身体、有形物、delictiが罪の、です。私は、そのまま罪の塊という日本語にし、それも巨きい数という意味で、罪の巨塊としました> つまり「罪の巨塊」とは「死体」のことだというのだ。本当にそのつもりだったとすれば、彼の日本語感覚は相当おかしいし、そんな解釈は公的には通らない。また赤松氏を「悪人」と書いたことはないというが、「屠殺者」とか「アイヒマン」とか、もっとひどい悪罵をつらねている。これが日本軍の「タテの構造」をさす記述であって個人のことではないという話も、原文にはなく、法廷で初めて出てきた話だ。「日本軍のタテの構造」が「屠殺者」であるというのは、どういう意味かね。日本語をまともに理解も記述もできない人物が「作家」や「評論家」として営業しているのは困ったものだ。 ▼ たまりかねた私は、おもわず、池田先生のブログにこう書いてしまった。 ----------------------------------------------------------------- 池田信夫先生、こんばんわ。 こちらでは初めてお邪魔いたします。 >他のメディアでは正確に表現されている。 正確に表現されればされるほど、曽野綾子と池田信夫センセの対談がバカに見えてしまいますよ 【しかし「罪の巨塊」だと思えた人物には会ったことがなかった。】 曽野綾子も池田信夫センセも私も、「死体」だと思える人物に会ったことなどないでしょうに、何を対談なさっていたんですか? 不思議に思われなかったのですか? (笑) >「屠殺者」とか「アイヒマン」とか、もっとひどい悪罵をつらねている。これが日本軍の「タテの構造」をさす記述であって個人のことではないという話も、原文にはなく、法廷で初めて出てきた話だ。「日本軍のタテの構造」が「屠殺者」であるというのは、どういう意味かね。 「屠殺者」は「記憶」する住人側にとって「屠殺者」なんでしょう。実際、今でも屠殺者のような証言がしばしば見られます。 また、「アイヒマン」のなにが悪罵なんでしょうか。 アイヒマン裁判は、アーレント「エルサレムのアイヒマン」の副題、「悪の凡庸さについて」をみればお分かりでしょう。巨悪とされてきたアイヒマンは、実は組織の中で忠誠をつくし続けた凡庸ともいえる人物だった。実は凡庸さこそ、巨悪を支えてしまうのだ…… 組織人として立派だったアイヒマンになぞらえることがどのように「ひどい悪罵」なのか、こちらの方がまるで理解できません。 「タテの構造」なんて、アイヒマン裁判になぞらえていれば、誰しも想像がつくことで、「初耳」なのは池田信夫先生の見識の低さをうかがわせるものだとおもいます。 もう一度、山崎行太郎氏の反論にきちんと向き合われて、反論されることをお勧めいたします。 ------------------------------------------------------------------ ▼ 池田先生のブログは、投稿しても管理者が見てからでないと反映されない。 この反論受け取ってもらえたのだろうか。 ← このブログを応援してくださる方は1クリック! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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