カテゴリ:神経症の成り立ち
ピアノの名演奏家ホロヴィッツは、一生栄光に満ちた人生を歩んでいたとばかり思っていた。
ところが実際には苦悩の多い波乱に満ちた人生であったようだ。 ホロヴィッツは1904年にロシアの寒村でユダヤ人の家に生まれている。 音楽の才能があった母親から6歳でピアノを始めた。 8歳でキエフ音楽院に入学し、そこで3人の教師に出会うことで、急速にその才能が開花した。 しかし16歳のころ国内政治の内乱に巻き込まれて、住居や財産のすべてを奪われている。 さらにユダヤ人であるということで大幅に自由を奪われていた。 彼が最初に直面した試練であった。1925年ベルリンに旅立つ。 (ちなみに彼が故郷に帰ったのは、ペレストロイカ後の1986年であったという) 彼はその頃までには卓越した演奏技術を身につけており、以後演奏活動で生計を立てるようになった。 中村紘子氏によればピアニストは15歳、16歳でほぼ基礎が固まっていないと、それ以降いくら頑張っても一流の演奏家にはなれないといわれる。 そんな最中、1932年の秋、大指揮者のトスカニーニからニューヨーク・フィルの定期演奏会でベートーベンの「皇帝」を協演してほしいという申し込みを受けた。 これがその後の彼の人生に決定的な影響を与えた。今考えれば不運の幕開けであった。 翌年そこで知り合ったトスカニーニの娘ワンダと結婚している。 次の年には娘ソニアが誕生している。 ホロヴィッツは、ワンダと結婚するまではトスカニーニの婿になるということがどういうことかよく分かっていなかった。 トスカニーニは、超人的ピアニストをつかまえて、「でくのぼう」呼ばわりをしていた。 まもなくホロヴィッツは、トスカニーニの前では借りてきた猫のようになっていった。 友人たちによれば、トスカニーニ一族の怒鳴り合い、ののしりあいには一種特別なエネルギーと迫力があって、そこに居合わせるとどんなタフなものでも生命が縮むほどの凄まじさがあったという。 更にトスカニーニと娘のワンダは人の悪口を言い合うことでも奇妙に気が合い、それこそ大声で口から泡をとばし合いながらの大袈裟な身ぶり手ぶりで誰かれの批判を言いまくり、時には熱する余りコーヒーカップが飛び交うことも珍しくなかった。 これとは対照的にホロヴィッツの家系には、神経過敏な傾向が強く流れていた。 兄は神経を病んで廃人同様になって死んでいる。 間もなく友人たちは、彼の異常なほどの神経質さ、おどおどした態度、情緒のはなはだしい不安定、時折みせる虚脱状態などに不安を覚えるようになった。 恐怖から逃れられないことを悟った彼は、精神的におかしくなったのだ。 それは演奏にもあらわれた。 18番のチャイコフスキーのピアノ協奏曲をめちゃくちゃに弾いたりした。 舞台に出る前は強度の緊張感に苦しめられ、開演のベルが鳴っている時に逃げ出してしまうということもしばしばあったという。 一方肉体的にも、神経性胃炎による腹痛と慢性の下痢がひどくなり手術をしている。 それがもとで余病を併発し、結局、彼はそれから2年近くの間をコンサートステージから遠ざかることになった。これは神経症の発生と格闘によく似ている。 このホロヴィッツは、肉体も精神もほとんど絶望的に衰弱し切っていたが、そんな彼の窮地を救ったのがロシアの大先輩であるラフマニノフであった。 ラフマニノフの献身的な援助がなかったとしたらホロヴィッツは再起できなかったであろうといわれている。 我々も我々の話をよく聞いてくれて、受容と共感の態度で支えてくれる仲間の援助が欠かせない。それが自助グループ生活の発見会の仲間たちだと思う。 ホロヴィッツは、それに加えて一人娘ソニアのことで問題を抱えていた。 娘にしてみれば、溺愛はしてくれたが時に理不尽で身勝手で激烈な癇癪持ちの祖父トスカニーニ。その存在すら目に入らぬほど彼女に無関心な父ホロヴィッツ。 そんなホロヴィッツにかまけて、娘の世話のすべてを家庭教師や召使にまかせきりの母親ワンダ。 愛着障害、アダルトチルドレンで苦しむ子どもができる条件がそろっていたのである。 ソニアは成長するにつれて攻撃的で乱暴で、気性が激しく移り変わる手に負えない少女になっていった。 両親の愛情と関心を惹きたいがためにわざと極端な行動に出て、ときには危険な状態を生じた。 煙草を吸ったり悪態をついたりの果て、カーテンや飼っている犬に火を点ける。 といった行動にまで及んだのである。 そして12歳で不良少女専門の矯正学校に入れられた彼女は脱走を繰り返し、その度に感化院、治療院、精神病院といった施設をたらい廻しにさせられた。 その後ソニアは一番気の合っていた叔母に引き取られ、イタリアで暮らしていた。 22歳の時、モーターバイク事故で脳に回復不能な損傷を負い、その後植物人間となり2年ほど生きながらえ、24歳の生涯を終えた。 彼女にとってはやりきれない人生だったことだろう。 ホロヴィッツは、演奏活動はキャンセルしたが、娘を見舞うことはなく、ニューヨークの家に引きこもったままだったという。 そのホロヴィッツはついに1949年妻のワンダと別居するようになった。 1989年85歳で亡くなる前は、目は虚ろ、口ではわけの分からぬ言葉をつぶやき、ほとんど発狂寸前であったという。 ホロヴィッツは人もうらやむ名声を獲得したが、はたして幸せな人生だったといえるのであろうか。神経症の発症と家庭の崩壊はこうして始まるという見本のような人生を送っている。 (ピアニストという蛮族がいる 中村紘子 文藝春秋より引用) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.12.11 10:36:38
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