カテゴリ:森田理論学習の進め方
森田理論の学習会で「あの人は神経症が治っている人、治っていない人」と選別する人がいる。
では何をもって「治った人」と判断しているのだろうか。 森田理論に精通している人を見て判断しておられる場合がある。これはまずいと思う。 私は「治った人」と言うよりは、「症状に振り回されなくなった人」 「楽に生きていけるようになった人」「森田理論を身につけた人」等と言ういい方が好きである。 そもそも仕事や生活に目が向けられるようになっても、不安や不快なことはたくさんでてくる。 そんな時はやはりイライラして右往左往してしまう。 振り回されて仕事や日常生活が全く滞ってしまうことは確かに少なくなる。 それでも抱えきれなってパニックになることはよくあるのだ。 「治っている人、治っていない人」と選別する人は、もう一つ困ったことがある。 そういう人は、神経症で苦しんでいる人を見て、その人を自分の力で救ってあげようとする気持ちがとても強くなってくるのだ。 私は救ってあげる人、あなた方は救われる人にはっきりと分離している。 救ってあげる立場に立っていると思っている人は、相手のことをよく見ていない。 というよりは見えなくなってしまう。 それよりも自分の掴んできた森田理論を説明することに力が入り過ぎてしまう。 森田理論はこんな理論だ。だからあなたはこのようにしなさい。 こうすれば神経症は克服できるというような話が中心になる。 しかしその思いは相手になかなか伝わらない。 それは信頼関係ができていない。相手の悩みに寄り添っていない。 相手の話を聞いていないから当然のことである。 これは自分の立ち位置が、上から下目線になっているからではないのか。 相互学習とは程遠い。そういう上下の人間関係の中での森田理論学習は、馬を水飲み場までは連れていけるかもしれないが、馬は決して水を飲もうとしないようなものだ。相手が引いてしまうのだ。 こうなると森田理論は素晴らしい理論なのに宝の持ち腐れになってしまう。それはとても残念なことである。 でも森田先生の入院療法はそういうやり方だったのではないかという疑問が残る。 森田先生が強力なリーダーシップを発揮されて、神経症を治していかれたのではないか。 だから同じやり方は今でも通用するのではないか。 森田先生の入院療法は一般社会から40日程度は社会から隔離されて行われていた。 また一週間の臥褥があった。 入院中は森田先生や奥さんたちが、一日中注意深く入院生を見ておられた。 そして入院中には、症状には手をつけないで、日常生活に丁寧に取り組むことを徹底して指導されていた。 意識や注意の向き方が内向きから外向きに変わることを目標にしておられた。 感情が動き出し、高まっていくことを身につけさせておられた。 体得が中心だったのである。それらが身につけば完治として退院させておられた。 系統立てて森田理論の学習はされていなかった。座学ではなく体得療法だったのだ。 「神経質の本態と療法」で述べられているような森田理論を講義形式で解説されていたわけではない。それらは退院後に参加された形外会や数多くの出版物であった。 先に体得があって、理論は後付けになっていたのだ。 最初から森田理論の注入することは、入院生を益々観念的にさせるばかりだということを森田先生はよく分かっておられたのだろう。 我々の相互学習はこの点が大きく違う。この点をよく自覚しておく必要がある。 先に森田理論学習で理論を頭に叩き込んでいるのだ。 それで神経症を克服できるかのように思ってしまうのだ。 これは大きな錯覚だと思う。ここは大きな問題だと思う。 森田は体得、実践が欠かせない。理論と行動はよく車の両輪にたとえられる。 同じ大きさの車輪の場合は前進することができる。理論の車輪がバカでかいとどうなるか。 行動と言う車輪を起点にして理論という車輪が空回りすることになってしまう。 そうなると元々あった神経症は以前よりも増悪させる役割を果たしてしまう。 自分を救うための森田理論が、自分を苦しめてしまうと言う皮肉な結果になってしまうのだ。 森田理論の学習会で「神経症が治っている人、治っていない人」と選別することは、理論学習の偏重に拍車をかけるものであって、本来の森田の取り組み方とは違うのではないかと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.01.04 06:53:07
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