カテゴリ:森田番外編
精神科医の森下克也氏は、 「軽症うつ」を治す、という本の中で次のように説明されている。
働くにあたっては、その意味づけが大切です。 社会に貢献するため、出世を追求するため、家族を養うためなど、それは何であっても構いません。 とにかく目的があることが重要です。 それがあれば、困難にぶち当たったとき、 「なにくそ」と頑張ることができます。 なかったら辛い思いまでして仕事をやりとげたいとは思わないでしょう。 「何のために働いているのかわかりません」とはっきり言う人さえいます。 そういう人は、心がくじけそうになった時に、きっと持ちこたえることができないでしょう。 では、どうやったら働く目的を明確にすることが出来るのでしょうか。難しい問題です。 ここではとりあえず、自分にとって仕事は「目的」なのか「手段」なのかを問うてみることから始めましょう。 「仕事は人生の目的である」と言える人は、時間の多くを仕事または仕事に関するものに割いても構いません。 気力も体力も維持することができるでしょう。 しかし、 「仕事は手段である」という立場をとる人は、仕事にあまり意味を見出せていません。 さして仕事に熱意を持てず、でも食べていくには仕方がないということで漫然と仕事に関わっているような人です。 そういう人は、 「自分にとって仕事とは手段である」と明確に位置づけて割り切るべきです。 けれども、そこにはひとつ、注意すべき点があります。 仕事は手段であるなら、仕事よりも優先すべき大切なものがなければいけません。 たとえば、家族、介護、趣味、他に目指す何かなどです。もしなければ強引にでも設定すべきです。 仕事は生活していく収入を得るための単なる手段である、と言うのは、仕事へのスタンスとしてあり得ることです。 決して悪いことではありません。そうすると、仕事の関わりは必要最低限でよく、要領よく仕事をこなしていくひとつの口実になります。 1番よくないのは「目的」か「手段」か、どちらかすらわからないということです。 それは意味もなく働いていると言うことに等しく、自己の存在感の希薄さが、時間が経つうちに、多大なストレスとなってくるでしょう。 この考え方に私は賛成です。 私の場合は「仕事は手段である」という考え方で会社勤めをしてきました。 口に出すことはありませんでしたが、心の中では「私は月給鳥」であると思っていました。 仕事にはあまりのめりこまずに、集談会での人間関係、家族や趣味、資格試験への挑戦などに力を割いてきました。そのおかげもあって人間関係で苦しみながらも定年近くまで持ったと思っています。 この考え方には反発を持つ人も多いと思います。仕事を通じて自己実現を図るべきではないかと。 神経質者は元々根は真面目で責任感が強い人が多いと思います。 それを前面に出して仕事にのめり込み、自分の心身や家族の団欒を犠牲にする人が多いと思います。 私はそういう働き方は問題だと思ってきました。 だから私はクビにならない程度ののらりくらりした働き方を選択してきました。 首にならない必要最低限の仕事をして、家族との団欒、自分の趣味などに力を入れてきました。 今の仕事は目標管理、成果主義、能率や効率重視などでがんじがらめに縛られており、まともに仕事をしていては、体を壊し、心を病んでいくのではないかと思います。 また、まともに取り組んでいると人間関係のストレスでうつ病などを発症しかねません。 ましてや管理職を目指して奮闘していると、能力がないとみなされるとすぐに出向やリストラされます。 私が森田理論で学んだことは、仕事、家庭、地域社会、趣味などのバランスを意識した生活を送るということでした。 仕事のみに大きく偏らざるを得ないような社会の風潮です。 その流れに疑うことなく乗ってしまうことは、自分の人生全体から見ると決して褒められたものではないと思います。いずれ身体と精神を病んでゆく方向に向かうのではないかと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.03.28 06:30:04
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