カテゴリ:感情の法則
森田先生は、何か行動を起こす時、自分が好きか嫌いかを出発点にすることが大切だと言われている。
たとえば、下戸の人がお酌をするときに、 「こんな辛いものをどうして飲めるかしらん」という心持ちで酒をつぐと、無理は行かないで、上戸も酒がうまく飲めるが、 「あの人は酒好きだから」というふうに、全く自分を離れて考えると、加減なしに、やたらに追いかけ追いかけ酒をつぐので、いくら上戸でもやりきれなくなるのである。 自分の好き嫌いから割り出して考えるということは、相手の立場に自分を置き換えて考えることができて、思いやりと言うことができるけれども、女の人などがご馳走するときに、全くこの思いやりができないで、人と自分とが全く別々の立場になることが多い。 神経質の苦痛も、自分に比べて人を推し量るとよいけれども、特に神経質は、自分と人との間に隔てをおいて、自分は勉強すると苦しいけれども、人は朗らかに愉快に勉強しているとか、人前で恥ずかしいのは自分ばかりで、人は皆気楽で羨ましいとか言う風に、人に対して全く同情と言うものがない。会の世話のようなことでも、人には無理な苦しい事をさせても、自分ばかりは楽にしようとするような人情になるのである。 この話は面白いが少し難しいようである。私の感じるところを書いてみた。 好きか嫌いかというのは人間に自然に湧き上がってくる感情である。 森田理論では、瞬間的に湧き上がってくる感情は「純な心」であると言われている。 たとえば田舎に行って農作業していると、よく蛇が出てくる。私は蛇を見ると、瞬間的に恐怖を感じる。 これはTVを見ていて、毒蛇などが映し出される時にも感じることである。思わず目をそらしてしまう。 森田先生はこの時に感じる蛇は嫌いだという感じから出発しなさいといわれているのだと思う。 私の場合は、反射的に蛇を見るとすぐにその場から離れてしまう傾向がある。 近所の人が蛇を見つけたとき、すぐには目をそらしたりはしない。とにかく蛇の頭を見ている。 頭が三角になっている蛇は蝮という毒蛇なので、いくら嫌だと思っても駆除しないと人間に害を及ぼす可能性がある。 毒蛇を放置していると、その周囲に毒蛇が増えてきて危険極まりない場所となる。 田舎の人は蛇は平気なのか聞いてみた。 実際には田舎に住んでいる人も蛇が嫌いだという人はとても多い。 そのために、田んぼや畑に行くときは長靴を履いている人が多い。 しかし蛇が嫌いだといって田んぼや畑に入るのを全く止めてしまう人はいない。 蛇は嫌だという気持ちは、どうすることもできない。その気持ちを持ちながら農作業をしているのだ。 これを森田理論で考えるとどういうことになるのだろうか。 蛇が嫌いという感情は自然現象である。感情自体はやりくりすることはできない。 仮にその感情をなくしてしまおうと考えると、どういうことになるか。 蛇から目をそむけて蛇を見ないようにしていると、意識や注意が自分の恐ろしいと思った感情や体のこわばりや震えなどに向かってくる。意識の内向化が起きるのである。これが曲者なのだ。これは気分である。気分は事実とは無関係に、いつまでも自分に内在しているから、日夜その恐怖に悩まされるようになる。夜寝ていても夢にまで出てくるようになる。 これは自分の心の中に住み着いた蛇だから、時に触れてたえず悩まされるようになるのだ。 終いには緑豊かな田舎で暮らしたいという夢はあるが、蛇がいるために田舎では暮らすことができないという話に発展してしまう。心の中に住み着いた蛇は容易に退治することができないのだ。 この場合、よくその蛇を見て、毒蛇の蝮なら手慣れた人を呼んで一緒に駆除する。 そうでない場合は、蛇が通り過ぎのを待って、農作業を再開すればよいのだ。 神経質者のように、嫌いなものに対して、全く目をそらして関わりを持とうとしない態度が、楽になるどころかどんどん自分を窮地に追い込んでいくのである。嫌いなものは嫌いだったという感情をそのままに認めて、その対象物から目を離さないで観察する態度を持ち続けることが大切なのだと思う。 森田先生によると、そうしていると、嫌いという感情自体が変化してくるといわれる。 中には、嫌いだと思っていた人の良い面も発見できたりして、仲良くなったりする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.05.31 20:25:36
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