カテゴリ:観念重視から事実重視への転換
集談会で自己否定感、自己肯定感の話がよく出てきます。
今日はこの言葉の違いについて考えてみたいと思います。 劣等感が強く、自己肯定感が持てない。 これは「自己受容」ができないということだと思います。 「かくあるべし」が強くなると、あるがままの自分を認めることができない。 自分のなかにいる2人の自分が反目して、絶えず言い争っている。 精神的に心休まるときがない。葛藤や苦悩でのたうち回る。 精神交互作用で悪循環のスパイラルに巻き込まれると始末に負えなくなります。 他人と比較して、薄毛やハゲ、メタボ、背が低い、容姿が悪い、歯並びが悪い、家がらが悪い、学歴がない、方言が抜けないなどと劣等感に苦しめられると自己否定するようになる。 人生はあっという間に終わってしまうのに、そこにとらわれ続けるというのは実に残念なことです。ほかに楽しいこと、やりたいことはいっぱいあるというのに。 樹木希林さんは、自分の身体は神様から預かっているものだといわれました。 自分はその身体を借りて利用させてもらっているのだ。 レンターカーや市民菜園を借りているようなものです。 その身体を利用させてもらっていることで、人生を謳歌できているのではありませんか。それなのに、リースやレンタルしているものに、ケチをつけている。 ないがしろにしている。粗末に扱っている。 手入れをして、預かったものを、よりよくしようなどとは考えない。 預かった時よりも、もっと良い状態にしてお返ししたいとも思わない。 その考え方はお互いに不幸なことではないの。 預けられた身体の方も、踏んだり蹴ったりで粗末に取り扱われるのだから、あなたに愛想をつかしてしまう。 気に入らないかもしれませんが、もう少し大事に取り扱ってもらえませんかと、涙ながらに訴えているのです。 もしそんなことが続けば、今度生まれ変わるときには、あなたとは金輪際コンビを組むことはしませんからね。 預かった方は、こんなものを押し付けられてはたまったものではない。 どうして自分だけがこんなにつまらないものを預からなければならないのか。 理不尽だ。もっとかっこいいものに取り換えてちょうだい。 もしそれができないのなら、あなたとは縁がなかったことにしてしまいたい。 もう永遠にお別れよ。死んだってかまわない。その方が清々するわ。 こうしたやり取りを神様はじっと見ておられるのかもしれませんよ。 天国であなたに貸してあげた身体をどう取り扱っているのか、査定をされているかもしれません。良い査定の人は、また別の星に生まれ変わるときに、もっと大きな役割や課題を与えられて、今まで以上の活躍の場を提供されるのではないでしょうか。査定のよくない人は、あなたにはこの地球上で、せっかく知的生命体を貸してあげたのに粗末に取り扱いましたね。 今後あなたには高度に発達した知的生命体としての身体は、もうお貸しすることはできません。毒蛇やワニのようなみんなに嫌われるような生き物になって生まれ変わってもらうしかありませんね。 残念ですが地球上での実績が悪すぎて、知的生命体としての生まれ変わりは保証できませんね。 樹木希林さんのような考えになると、常に自分持っているものを最大限に活かすことになるので、そもそも自己肯定感という言葉自体に意味がないということになります。森田ではこのことを「己の性を尽くす」と言います。 自分だけではなく、所有物も、他人も、時間も、お金も、元々持っている価値以上に高めていくことを目指しているのです。 全ての人がそういう気持ちになれば、世の中から争いごとや貧富の差がなくなり、真の平和が訪れます。 森田理論というのは、神経症をなくするというところから始まりましたが、人類の輝かしい将来を視野に入れた人間学としてその真価を問われているものなのです。 (この世を生き切る醍醐味 樹木希林 朝日新書参照) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.12.26 06:52:20
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