文化座のアトリエ公演「明日は風のない日」を駒込に観に行きました。
入間おやこ劇場に招待券が来ていたので、例会部員の特権?で使わせてもらったのです。
まあ、下見?で感想を書くのですが。
FAXで招待申込みを文化座に送ったつもりでしたが、なぜか届いてなかったらしく、
受付でまごつきましたが、また発券してもらいました。
駒込駅から迷いながら来たのに、ここで帰されたら、
うちから一時間半かけて来た意味がないから良かった。
FAXの原稿の招待券を持ってきた方がわかりやすかったですね。
「舞台は長崎、坂の上に55年前の原爆に耐えた家がある。
静かに暮らす姉と妹夫婦の元に、事業に失敗し、多額の借金を抱えた義兄が転がり込んでいた。
今日は8月9日。
被爆二世として、いまひとつ結婚に踏み込めない姉が縁談相手を連れて来るという…」
演技がわざとらしくなく、自然で良かった。
戦後55年という昭和レトロな家の内装なのに、携帯を使ってるから、
時代設定はいつ?と思ってしまったけど、
携帯は脚本の進行上、必要な小道具なのだろうから仕方ないか。
漫画の「ガラスの仮面」でも、同じように昭和?に携帯がいきなり出てくるのを思い出してしまった。
印象的な言葉は姉が義弟に語った自分の「涙の谷」。
「女はいつも泣いてるみたいて悔しい」とも言っていた。
本当にそうですよね。ただ、被曝二世の女性の「涙の谷」はもっと深いのでしょう。
「涙の谷」が太宰治の『桜桃』や旧約聖書に載ってる言葉とは知っていたけど、ネットで詳しく調べてみました。
「太宰治の『桜桃』の中で、主人公に一番汗をかくのはどこか?内股か?と問われた妻が答える台詞が「この、お乳とお乳のあいだに、……涙の谷、……」です。
この「涙の谷」もまた、旧約聖書の詩篇第84に出てきます。ただ、「涙の谷」と表現されているのは文語訳聖書で、口語訳聖書では「嘆きの谷」(あるいはバカの谷)と表現されています。今売られている聖書で、いくら「涙の谷」を探しても出てきません。」
「旧約聖書の詩篇84:5〜7には、神の力を拠り所として生きる信仰者の幸いな姿が書かれています。ここで「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。」とありますが「涙の谷」というのは、特定の地名ではなく、荒廃と嘆きのある場所を示しています。人生には、多くの涙の谷があります。人生は涙の谷を行く旅のようです。」
借金を抱え、妻子と別れて弟夫婦の家に居候する兄。
妻子が長崎に来るから会いに行くと言いながら、実際には来てなかったらしく、
一人で交通事故に遭って死んでしまう、、、
自殺ではないかと思うけど、「いつまでも雨宿りしていられない」と言っていたのは、
これ以上弟夫婦に迷惑をかけられないということなのかな。
義妹が「気にしないで下さい」と気遣っていたけど、それがかえって申し訳なく負担に感じていたのかも。
思いやりが仇になる?という矛盾、、、
姉も村山と西山の間で揺れ動きながらも、村山と結婚することになるんだろうなあ。
涙の谷が乾くことはないだろうけど。
妹が妊娠を素直に喜べなかったのは、被曝二世だから?と思ってしまった。
姉も、涙の谷のアザが被曝とは関係ないと医者に言われたのに、相手にどう思われるか、
先回りして考えてしまう自分が嫌だと言っていたから。
それでも、チラシに書いてあった通り、最後には希望が見えてホッとした。
引用しますね。
「背負った人生の重さは違っても、夜明けは等しく人々に訪れる。その光が、明日へと続く希望の灯であることを祈って」
最初に兄が夜明けを見ていたのは、これを示唆していたのか。
明けない夜はないと。
ただ、兄はその時、「人類が滅んで夜明けが来ても虚しい」というようなことを言っていた。
義妹は、「それでも夜明けは希望だ」と言っていたが。
兄もそう思えれば、自殺することはなかっただろうに。
私もいろいろ考えさせられました。