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地中海世界の旅

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2013.10.12
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メキシコのヤシの木


               メキシコのヤシの木






 

       国営富岡製糸場と松代の横田英の”富岡日記”


 開業明治5年の国営富岡製糸場は明治政府の重要な施設だった。政府が急いだのは生糸の輸

出で外貨を稼ぐこと。そのためには生糸の品質の改良と大量生産。これを実現するために、国

内各地に国営富岡製糸場をまねた製糸場をつくる。そのための15~25歳の技術伝習工女が国

営富岡製糸場で活躍した。その中のひとりで当時松代の武士の娘で横田英(結婚後は和田

英)”富岡日記”を残した。


 エスペランサは日本各地から技術伝習工女が集められた背景には、西洋技術を積極的に学び

たいという気質もあった。たとえば松代藩では佐久間象山のような西洋技術(大砲、電信技術

など)を取り入れて日本の開国を進める人もいた。 


          
      長野県 松代の横田英の”富岡日記”


  横田英の”富岡日記”は国営富岡製糸場の技術伝習工女として16歳の横田英は同郷の長野

県松代の女子15名とともに1年数ヶ月国営富岡製糸場で研修した。富岡日記の特徴は観察眼の

鋭さ、10台女性の揺れ動く心、生き生きとらえたみずみずしい文章などである。当時の国営富

岡製糸場の周りの人々の様子や生活を知るための貴重な資料であり、近代の礎を築いた、一時

代を生きた一人の女性の生き様である。





      横田英の”富岡日記”の内容


 横田英の富岡日記を読んで感じることは、日記の形式でなく国営富岡製糸場および長野県の

六工社(松代)~横田英が技術指導~で勤務したときの印象に残ることごとを後年まとめて要

約した形式でした。(回想は約30年の後に書かれた。)多分、日記のように日々の出来事を書

き連ねていれば、大きなとらえ方ができず、物事の本質を浮かび上がらせることは書けないと思う。



  横田英の書き方は後年に記したためか、事件の本質を捉え、うわべのことを省略した記述

になっている。もちろん明治の初期の世情、社会がまだ江戸時代の雰囲気を残しているので、

すべてが明治の新しい世の中ではない。古くからの長野県の考えや、封建的な思考も横田英の

考えに出てくる。それは明治初期に生きた生身の人間として、当時の世間の考えを正直にその

まま書いている点でも、好意的にとらえられる。10代始めから繊維業に入り、多くの経験を積

み重ねて行った横田英の人生観、処世術がみられる。

 
 横田英の富岡日記の中で特に見られるのは、父親が武士で武家としての誇りを貫きたいとい

う横田英の気持ちや父母への孝行や神仏への硬い信仰心により多くの難問に当たる考えが、強

く文章にあらわれている。現代の考えからは遥かに異なった精神性を強く持った横田英という

明治の一女性の強さを感じた。

       
 

       横田英の”富岡日記”の意義



 この回想記が現代まで読み継がれてきた意味を考える。この本の現代的意味は地域女性史や

常民史の発掘が研究の主要な動向になった時期に無名の一明治初期の女性の生き方が話題にな

った。明治政府の殖産興業の目的のため、信州松代から富岡まで製糸技術の伝習のために出か

け、後に信州松代での六工社での製糸技術を工女に伝えた記録であり生きた行動の記録であ

る。



 特に信州松代については明治維新に向けての特記すべき革新的なものがある。松代藩の時代

には佐久間象山を生み出したこと。松代藩の藩校で進んだ西洋の学問など取り入れていた。江

戸時代末期にアメリカのペリーなどの海外からの開国要求の中、松代藩主・真田幸貫が徳川幕

府の老中兼任で海防掛に任ぜられて以降、状況が一変する。佐久間象山などにより国防から大

砲の実験や多くの西洋の品物を取り入れている。こうした進取の雰囲気は横田英の考えにも反

映されたと思われる。


 
 

     横田英の”富岡日記”研究と世界遺産推薦



 富岡日記が社会的に知られる経過は1965年に上条宏之氏による「富岡日記ー富岡入場略記*

六工社創立記」の刊行。1976年同氏の「定本 富岡日記」、1978年に「富岡日記」(中公文

庫)などが出て歴史的評価が高まる。



 2014年国営富岡製糸場の世界遺産推薦をめぐる経過は、明治5年(1872年)の開業以来の企

業存続により現在、国営富岡製糸場が 見学可能になった。現在まで続く130年の時を経た歴

史は官営から1893年三井家に払い下げられその後、原合名会社をへて片倉工業の所有で1987

年まで操業を続けた。片倉工業は30年以上毎年大きな費用をかけて保存管理してきた。その後

片倉工業から敷地ごと富岡市が譲り受け製糸場をメインにした養蚕、織物、絹関連の遺産を世

界遺産登録の推薦リストに載せるまでになった。




 世界遺産登録の推薦リストまでの日本国の各指定は2005年国指定史跡、同年建造物を富岡

市に寄贈。2006年国指定重要文化財。2007年富岡製糸場と絹産業遺産群を世界遺産暫定一覧

表に記載。2012年政府で世界遺産委員会への推薦が決定。2013年世界遺産委員会へ推薦書を

提出。



    

     エスペランサの繭の乾燥アルバイトの思い出



 高崎の大学に行っている時期に、サークルはワンダーフォーゲル部にいた。クラブ全員で夏

合宿のための資金つくりのために深谷にある深谷倉庫での繭のアルバイトを行った。


大学のワンゲル時代の思い出で製糸つながりの深谷倉庫での繭のアルバイトを思い出します。

暑い時期でワンゲル部員全員で深谷での厳しいバイト(12時間も働らいた。なんと2週間近

く)を40年以上の過去の思い出が今でも繭の独特な匂いとともに懐かしく覚えています。



 

   長野県   松代  旧横田家住宅



 武士の暮らしぶりを身近に感じる空間       

 1800年代前半から中頃にかけて建築されたとみられる中級武士の武家屋敷です。

 松代の中級武家住宅の典型的な間取り、構成を残しており、1986(昭和61)年に国の重要

文化財に指定されました。長野市が保存・修景工事を行い、1992(平成4)年から一般公開さ

れています。

 長屋門・一部2階建ての主屋・隠居屋・土蔵、遠山を借景とする庭園・菜園、庭に流れる泉

水などを見ることができ、江戸時代の中級武士の暮らしが身近に感じられます。

 横田家は、「富岡日記」で知られる和田英をはじめ、幕末から明治・大正・昭和にかけ、最

高裁判所長官、鉄道大臣など多くの人材を輩出しました。


所在地 〒381-1231 長野県長野市松代町松代1434-1

お問い合せ 026−278−2274


       


      2014年世界遺産登録へ

     国営富岡製糸場と絹産業遺産群
 


    国営富岡製糸場は世界遺産としてどんな価値があるのか?


国営富岡製糸場はフランスの技術導入から始まり、日本独自の自動繰糸機の実用化まで、製糸

の技術革新が絶え間なく行われてきました。国営富岡製糸場と絹産業遺産群は高品質な生糸の

大量生産に貢献した。19世紀後半から20世紀にの日本の養蚕、製糸分野における世界との技

術交流と技術革新を示した絹産業に関する遺産です。



               





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最終更新日  2013.10.12 09:37:59
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