カテゴリ:読書ノート
やっぱし山本周五郎はいいなあ。ほれぼれ。 久しぶりに読んだんですけどね。もう、どれも良作ばっかり。藤沢周平みたいに無理やり手篭めになんてご都合主義な展開もないし。 人情があって、情があって、愛があって、道徳観も倫理観もうそくさくなくて、ナーイス! あとのない仮名改版 でも特にこの中のよかったのが、『桑の木物語』でした。 いままで読んだ山本周五郎のなかでいっちゃんよかった。 この話には人間のすべて、人生のすべて、がつまってると思います。 でもって、子育ての基本とか、何が大事かとか、子育てのポイントとかも書いてあるし。 人間てこうやってそだてるものなのかーというのがとーってもよくわかるんじゃないかと思います。とにかく含みがとても多い。 主人公裕二郎は武家の次男坊。生まれてすぐに船宿に養子に出されちゃう。そのおかげでものすごく元気でやんちゃでがき大将な子供ができあがります。 裕二郎のおじいさんは藩でも要職につく人。藩主のあととりの育て役。 この祖父の考えによって裕二郎はこんな風に育てられたんですね。 実のところ主人公の裕二郎は、この病弱な若殿を健康な人間に育てるために祖父が計画して、育てたように思えます。わざと船宿に預け、あまりしからずに野放図に育てさせたのも、学問よりは、体と健康を重視して、腕白坊主に仕上げて、やがて若殿を健康に育てるための計画だったと思えます。本来武家に生まれ、そのまま普通に育てれば普通に育ったかもしれない裕二郎を、あえて、あのように育てたということは、若殿を育てるための捨て駒であったのではないでしょうか。もしかしたら、船宿に預けても、予定通りに裕二郎は育たなかったかもしれない。 そのまま、庶民としても、武士としても、半端なままの人間になってしまったかもしれない。それでも、将来の藩主のためにそんな育てられ方もされてしまう。やっぱり武家社会なんだなあ。 しかし、裕二郎と一緒に屋敷を抜け出して、浅草の町で幾度も遊び、庶民の暮らしを見てすごした若君は、裕二郎とは、違うものを見ていたのです。長じて、藩主となった彼は、裕二郎とともにみた庶民の暮らしぶりを参考にそののち、名君とまで呼ばれるようになります。 同じように遊んで同じものを見ても、やはり人によって見るもの、得るもの、興味の行くところは違う。ただのがき大将にしか過ぎない裕二郎と、藩主となることを覚悟している若殿では、視点が違うんですね。 若君にはもうひとり、勉強のできる学友がいたんですね。若殿は遊びもしたけど、やっぱり勉強もしたようですね。 若殿のおそばに最後まで残って小姓となったのが裕二郎と、秀才のと、のんびりやの。人間に必要な要素ってつまりこの三点なのでしょうか。 さて、長じて藩主となった正篤は、意外なことに裕二郎を退職させてしまいます。 もっとも正篤と心を通わせていた、一番の部下であるはずの裕二郎にとっては晴天の霹靂。 とうとう、彼は自分の故郷の船宿に戻ってしまい、おさななじみのおみつと結婚し、船宿をついでそこで一生を終えるのでした。正篤との接点がなくなった武家社会は裕二郎にとってはもう意味のない世界になってしまったようです。 ラストで、裕二郎は藩主正篤によびだされ、かつてともにすごした下屋敷で再会することが出来ます。 そしてそこでなぜ自分が正篤から離されたのか知ることができます。 正篤は、自分がこれから藩政の改革をする上で必ずそばにいる裕二郎が他の藩士たちの恨みを買うことを予想したのです。裕二郎にそんなつらい立場に立たせたくなくて、涙を呑んで裕二郎を仕事払いしたのでした。正篤は二十代の若さですでに人の憎しみや嫉妬などの感情が本人ではなく、その少しずれた位置にいる人間に向かうことを知っていたのです。すごい。山本周五郎もそういう人間の心の機微を知っていたのですね。こういうことをはっきり小説の中で描写されるのを読んだのは初めてでした。すごいです。 この物語には、ずいぶんたくさんのことが詰め込まれているように思えます。 人は武士として窮屈で堅苦しい世界で生きるのと、庶民の中で、のびのびと生きるのとどちらがいいのでしょう。 勉強も大事だけれど、人の心や庶民や普通の人たちの現実の暮らしを知ることの大切さも、リーダーとして人身を読むことの大切さも、人の一生が長さよりも、その濃度にあることも、人の幸せが出世することばかりではないことも、そのほかにもいろいろなことが書き込まれている濃いーお話でした。
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