|
カテゴリ:うるま市
(宮城島の宮城御殿) うるま市宮城島の中心部に「宮城集落」と「上原集落」が東西に隣接しています。宮城集落にある「宮城御殿(ナーグスクウドゥン)」は通称"カミヤグワー"と呼ばれていて、「観音堂」の呼び名でも親しまれています。一説には北山系の按司を祀っているとも言われています。昔、泊グスク近くのトゥマイ浜に大木が漂流しているのを知った村人が、総出で大木を引き上げようとしましたが全く動きませんでした。 (宮城御殿/ナーグスクウドゥン) 神のお告げを聞いた喜屋原ユタハーメーが「ノロ(神女)の仲泊ハーメーが音頭を取らなければ動かない」と言うので、仲泊ハーメーが大木に乗り音頭を取ると、不思議にも簡単に陸揚げする事が出来ました。村人はこの大木で現在地に神殿を造り、宮城集落の守護神として信仰してきたのです。 (宮城ヌル御殿) 宮城御殿の向かいには「宮城ヌル御殿」が建てられいます。沖縄のノロ(神女)はヌルとも呼ばれ「宮城ヌル御殿」には喜屋原ユタハーメーや仲泊ハーメー、更には宮城集落の歴代のノロの魂が祀られています。浜に漂着した神木一本で建てられた宮城御殿は、特に幼児の健康や発育に特にご利益があり、旧暦1月18日には「ウクワンニンウガミ」(御観音拝み)が行われ、島内外から沢山の参拝者が訪れます。 (地頭火ヌ神) 宮城中央公園内に「地頭火ヌ神」があり、琉球王府時代の地方役人(地頭)と結びついた火ヌ神を地頭火ヌ神と言います。火ヌ神(ヒヌカン)の祠には3つの霊石が祀られており、宮城集落の村人を厄災から守り健康を守ってくれる神様として崇められているのです。 (世持神社) 宮城御嶽の東側には「世持神社」があります。「世持(よもち)」とは沖縄の古語で「豊かなる御世、平和なる御世を支え持つ」との意味があります。「世持神社」農耕の神様で宮城集落の村人は五穀豊穣を祈り、収穫された農作物を神社に捧げて神に感謝しました。 (泊グスク) 宮城集落の東側、宮城島の北東に「泊グスク」がひっそりと佇んでいます。標高37.4メートルの琉球石灰岩の大地上に作られたグスクで、グスク内や周辺からは琉球グスク時代に属する輸入陶磁器や土器などが発掘されています。泊グスクは別名「トマイグスク」や「隠れグスク」とも呼ばれています。 (泊グスクの階段) 「泊グスク」の入り口から一直線にグスク中腹に登る階段があります。1322年、後北山王国の初代国王である怕尼芝(はにじ)に滅ぼされた今帰仁グスクの仲宗根若按司の末っ子である志慶真樽金の一族が、宮城島に逃れた後に「泊グスク」を築いたと伝わります。また「泊グスク」は伊計グスクとの抗争に負け、生き残った樽金の子孫は後に「宮城村」を作ったと言われています。 (泊グスクの中腹) グスク入り口の階段を登ると、グスク南側の琉球石灰岩の壁沿いに進む道が続いています。グスク内には拝所があるようで、年に数回ほど宮城集落のノロ(神女)が拝みに訪れて崇め敬われています。また、無闇に肝試しや遊び半分で立ち入ると厳しい神罰が下ると言われているので、普段から立ち入る者がいない「神山」となっているそうです。 (アガリ世ヌ神) そんな畏怖の念を起こさせる「泊グスク」の奥地に、私は一歩一歩ゆっくりと足を進ませて行きました。深い森の内部に入ると辺りが薄暗くなり始め、ゴツゴツした琉球石灰岩と亜熱帯植物が行方を困難にさせて行きます。しばらく暗い細道を進むと突き当たりに拝所を発見しました。「アガリ世ヌ神」(アガリの御嶽)と呼ばれるウガンジュ(拝所)でウコールと霊石が祀られていたのです。 (按司ヌメーの御嶽) 「アガリ世ヌ神」の少し手前に更に細く薄暗い道があり、行き止まりかどうか半信半疑のまま足を踏み入れました。すると急に張り詰めた空気に一変し、四方八方から数多くの"何か"に見詰められている気配を強く感じたのです。私は恐怖心に襲われないよう、必死に森に話しかけながら心を落ち着かせて平常心を保ちました。そこから数十メートル先の突き当たりに「按司ヌメーの御嶽」が私を待ち受けていたのです。御嶽には巻貝殻やウコールが設置されていました。 (上原集落のヤンガー) 「按司ヌメーの御嶽」にお賽銭を供えて手を合わせて拝み、神罰が当たらない事を望みながら私は「神山」の泊グスクを後にしました。さて、琉球石灰岩と第三紀層泥灰岩(クチャ)の地質で成り立つ宮城島は、雨水を保水する理想的な地形で多くの湧き水があります。上原集落の「ヤンガー」は宮城島で一番の湧出量を持ちます。 (ヤンガーの井泉) 上原集落と宮城集落の村人の飲水としてだけでなく、毎年正月の若水や赤子が産まれた時の産水としても使用されており、日常生活に欠かせない貴重かつ神聖な水源となっています。「ヤンガー」は1849年に間切の地頭代が他の役人や住民と共に造られました。この改修工事の功績を称えた琉歌があり「やんがはいみじや いしからるわちゆる よなぐすくうめが うかきうえじま(ヤンガ走い水や 石からどぅ湧つる 与那城御前が 御掛親島)」と記された歌碑が建てられています。 (上原ヌン殿内) 「ヤンガー」から程近い場所に「上原ヌン殿内」があります。集落の祭祀を司る最高位のノロ(神女)はヌンと呼ばれ、ヌンの住居を「ヌン殿内」といい、ヌンや他の神人がウマチー(村の五穀豊穣や繁栄を祈願する祭り)などの祭祀を行う場でもありました。「上原ヌン殿内」の敷地には数本の魔除けの石柱が設置され神秘的な雰囲気を醸し出しているのです。 (高離節の歌碑) 上原集落の南西側にある「シヌグ堂遺跡」には「高離節の歌碑」が設置されています。歌碑には「高離島や 物知らせどころ にゃ物知やべたん 渡ちたばうれ」と記されています。歌の作者は近世沖縄の和文学者として名高い平敷屋朝敏の妻である真亀(まがめ)と伝わっています。歌は「高離島(宮城島)は様々なことを教えられるところです もう十分に思い知ることができました 私の生まれ育った地に願わくば 命あるうちに帰りつけますように」という意味で、悲劇的に宮城島に流刑された真亀の複雑な心情が歌われています。 (シヌグ堂遺跡からの絶景) 真亀は夫の平敷屋朝敏が薩摩に首里王府を告発する投書をしたことで政治犯として処刑され士族から百姓に落とされました。夫が悲劇の死を遂げ島流しにあう辛さ、寂しさと貧しさに耐えながら、優しく接してくれる島の住民への感謝の念と故郷への思いを募らせる真亀の心情が「高離節」の歌に込められています。「高離節の歌碑」は絶景が広がるシヌグ堂バンタに建てられています。 (宮城島の浜) 宮城島は面積が5.5kmで周囲が12.2kmの小さな離島でありながら、宮城、上原、桃原、荻堂の4つの集落に多数の遺跡文化財や井泉が点在しています。更に縄文時代、グスク時代、琉球王国時代、そして現代へと歴史の移り変わりの中で激動の時代を生き抜いてきました。現在でも石垣が積まれた琉球古民家が多く残り、優しい島人は生まれ育った宮城島を誇りに思いながら、伝統行事を大切に守り後の世に継承してゆく事でしょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.10.28 19:18:32
コメント(0) | コメントを書く
[うるま市] カテゴリの最新記事
|