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パワースポット@神の島「Okinawa」

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2022.12.06
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カテゴリ:沖縄市

(尚宣威王の墓)

「尚宣威王/しょうせんいおう」(1430-1477年)は琉球王国第二尚氏王統の第2代国王(在位:1977年)です。第二尚氏王統の初代国王である「尚円王」の弟で、出生は伊是名島諸見村で神号は「西之世主/にしのよのぬし」でした。死去した場所は現在の沖縄市越来の「越来間切」で、死後に賜った諡(おくりな)は「義忠」となっています。「尚宣威王」は数え年の5歳の時に父母(尚稷/瑞雲)を失い、その後は兄の「金丸/後の尚円王」により養育されました。9歳の時に兄に付き添って首里に移り住み、1453年に下司(げし)士族階級の「家来赤頭/げらへらくかべ」に昇格し、さらに1463年には地方役人である「地頭代/親雲上」として「黄冠」を賜りました。兄が「尚円王」に即位した後は越来間切を領地として「越来王子」と称していました。


(尚宣威王御墓の石碑)

(尚宣威王の墓に向かう階段)

(岩山中腹の入母屋式石製厨子)

(岩山中腹の入母屋式石製厨子)

沖縄本島中部にある沖縄市の中央部に「越来/ごえく集落」があり、集落の西側に沿って流れる「比謝川」と昔に流れていた「セーシャー川」が合流する場所にある岩山の中腹に「尚宣威王」の墓があります。「尚宣威王御墓」と刻まれた石碑が建立されており、この場所には古い時代に使われていたと思われる古い階段跡が残されています。「尚宣威王」の墓に向かう階段の途中にある岩肌の窪みに2基の入母屋式の石製厨子が現在も露わに置かれています。向かって左側の石製厨子には屋根型の蓋が施されていますが、向かって右側の石製厨子には蓋が無く前方に人骨らしき物体を確認できます。死後に風葬された遺体はある期間経過すると遺骨が取り出され、洗骨により洗い清めた後に厨子に納められます。この岩山中腹の石製厨子は「尚宣威王」に関わる人物のものであると推測されます。


(尚宣威王の墓/尚宣威王御来歴の石碑)

(尚宣威王の墓)

(尚宣威王の墓に祀られたウコール)

階段を登り切ると正面には「湧川家・普久原家・泉水家・角ヌ屋家」により建立された「尚宣威王御来歴」の石碑があり、高さ約3mの崖上に「尚宣威王」の墓があります。この墓の下には石製ウコール(香炉)が祀られており湯呑と花瓶が供えられています。1476年に「尚円王」が死去すると翌年、世子の「尚真」がまだ幼い事から群臣の推挙により「尚宣威」が第二尚王統第2国王に即位しました。しかし、その年の2月に琉球神道に伝わる陽神「キミテズリ/君手摩」が出現して、その神託により僅か半年で「尚宣威王」は退位しました。この「キミテズリ」はニライカナイに住む海と太陽を司る琉球王国の守護神で、王国の存亡の機に君臨するとされています。新しい国王の即位の儀式中に神女に憑依して神意を伝えると言われます。


(ウナジャラ/王妃の墓)

(ウナジャラ/王妃の墓)

(ウナジャラ/王妃の墓のウコール)

(ジンクラ/銭倉)

「尚宣威王」の墓に向かって左側に隣接して「ウナジャラ/王妃」の墓があり、墓の下にはウコールと霊石が祀られています。さらに、この墓に向かって左側の角には「ジンクラ/銭倉」があり、あの世のお金である「ウチカビ/打紙」を焚く為の場所となっています。即位式で「尚宣威」を新王として讃えるはずの「キミテズリ」が「尚円王」と「オギヤカ/宇喜也嘉」の13歳の子である「尚真」を讃える次のオモロ(神歌)を唱え「尚真王」が即位しました。『首里オワル王(テダコ)我が思子ノ遊ビ見物、遊び躍(ナヨ)レバノ実物、鷲ノ羽差シ給ワチヘ。ト、神歌ヲゾ召サレケル。尚宣威王聞召シ給フテ、我ソノ徳ニ非ズシテ、帝座ヲ汚シタルコト、コレ天ノトガメ有リゲルゾヤトテ、在位6ヵ月ニシテ、御位ヲノガレテ、世子中城王子ヲゾ即位ナリ奉リ給フ。』これは王府の女官を掌握していた「尚円王」の未亡人であった「オギヤカ」の陰謀でした。


(尚宣威王の墓に向かって右側の古墓)

(尚宣威王の墓から降る階段)

「尚宣威王」の墓に向かって右側には石が組まれた古墓があり2基の石製ウコールが祀られています。「キミテズリ」が唱えたオモロの意味は『我が世子の欣喜雀躍し給うみ姿の美しさよ、鷲の羽をかざし給う御子こそ、我が王である。』で、我が世子とは「尚円王」の世子「尚真」を指しています。このオモロを聞いた「尚宣威王」は愕然としてしまい、神女達が式場から退場すると不安に襲われながら引き上げていったと言われています。「尚真」は「尚円王」が50歳にして初めて授かった子で「尚真」の母后である未亡人の「オギヤカ」は、その当時32歳の権勢欲も虚栄心も十分に持った女盛りでした。そのため「尚宣威王」が「オギヤカ」の子である「尚真」に代わって第2代国王に即位した事に不満を持っていたと言えます。


(尚宣威王の墓の麓にある古墓)

(那志原貝塚の古墓)

(那志原貝塚の古墓)

(那志原貝塚の古墓)

即位した「尚真王」は13歳と幼かったために母后の「オギヤカ」が政治の実権を握りました。この件について当時琉球王国に保護されていた朝鮮人漂流民が『朝鮮王朝実録』にて『世嗣の王は幼少で、母后が政治を見ている。』と供述した記録が残されています。「尚真王」は母后の意思で全琉球のノロ(祝女)を統括する「聞得大君/きこえおおぎみ」という最高神女職を設け「尚真王」の妹(オギヤカの長女)を任命し、沖縄本島南城市にある「斎場御嶽/セーファーウタキ」にて就任の儀式である「御新下り/うあらうり」が行われました。「キミテズリ/君手摩」のご加護を得て「聞得大君」としてのセジ(霊力)を身に宿すとされ、就任後は原則として生涯職となっていました。これにより「オギヤカ」は「政治の支配」と「神の神託」という形で民を統治し「尚円王・オギヤカ」一族によって琉球王国を完全支配する体制の基礎固めに成功したのです。


(那志原貝塚の森)

(大工廻の拝所周辺の墓)

(比謝川と尚宣威王の墓の丘陵)

「尚真王」は第二尚氏王統の歴代国王を葬られる墓所として、現在の那覇市首里金城町に「玉陵/玉御殿/たまうどぅん」を造営しました。1501年に建立された「玉陵の碑文/たまおとんのひのもん」には「玉陵」に埋葬されるべき被葬者の資格が刻まれており「尚円王」と「オギヤカ」の子孫のみか記されていて「尚宣威王」やその血統以外の者は除かれていました。これも事実上、王国の実権を握っていた「オギヤカ」の意思であると考えられています。「尚真王」が国王に就任すると「尚宣威王」は「越来間切」に戻り、半年後の8月に「越来グスク」にて病死したと伝わっています。「尚宣威王」の墓については、その墓の所在地に異説もあります。一つは「尚宣威王」の墓は北谷町の「北谷グスク」にある説と、もう一つは沖縄市津嘉山町の「津嘉山森遺跡」にあるという記録も存在しています。






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最終更新日  2022.12.08 07:58:41
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