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パワースポット@神の島「Okinawa」

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2022.12.16
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カテゴリ:北谷町

(字平安山拝所)

沖縄本島中部の西海岸に北谷町「浜川(はまがわ)集落」があります。この集落の南側でかつて「アマジチメー」と呼ばれた浜辺の墓地群には現在「字平安山拝所」があります。沖縄戦の以前「浜川集落」の南側に「平安山(へんざん)集落」がありましたが、戦後は「伊平・上勢頭・下勢頭」の3つの字に分割され、その大部分の土地は米軍嘉手納基地の敷地内にあります。その為、昔より「平安山浜川」と併称されるほど繋がりがあった「浜川集落」の土地に「字平安山拝所」が移設され「白露之神」「字地川之神」「殿之神」の拝所が合祀されています。「平安山集落」の「平安山ノロ/ハンザンヌル」と呼ばれる祝女は「平安山/ハンザン・浜川/ハマガー・砂辺/シナビ・桑江/クェー・伊礼/イリー」の5つの集落の祭祀を管轄していました。


(白露之神の石碑)

(字地川之神の石碑)

戦前の「平安山集落」には「平安山ウガン」と称する拝所があり、二十四節期の第15にあたる八月節(旧暦7月後半から8月前半頃)の「白露/はくろ」に集落の有志がシル豆腐を供えて「白露の拝み」を行なっていました。さらに2月・3月・5月・6月の豊作祈願と収穫祭である「四ウマチー」の行事では「平安山ノロ」が祭祀を行いました。この「平安山ウガン」は1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』に記されている『オヤギヤクイ君ガ嶽 神名 イシノ御イベ 平安山村』に相当すると考えられます。「平安山の合祀所」には「字地川之神」の石碑も祀られており「字地川/ウーチヌカー」は「平安山」の先祖達が使用したカー(井戸)と伝わり、古老によると昔「字地川」では雨乞い祈願が行われていました。まず男達が井戸で豚を一頭潰し、豚の骨や肉を拝所の霊石に供え「平安山ノロ」により祈願されます。祈願を終えたノロは雨乞いの「ウムイ/神唄」を歌いながら「字地川」の水を村人にかけながら水の神に雨乞いしたと言われています。


(殿之神の石碑)

「殿/トゥン」はかつて「平安山集落」の北側で屋号「イリウフヤグヮー/西大屋小」から西側に向かう道の角にありました。『琉球国由来記』には『平安山之殿 平安山村』と記され『麦・稲四祭之時、花米九合宛・五水八合宛此時、朝神・夕神二度、神酒一宛・シロマシ一器平安山地頭、神酒二半宛芋。平安山村百姓中、供之。平安山巫ニテ祭祀也。』との記述があります。「殿」で行われていた主な行事は旧暦2月2日から4日の3日間催された「クスッキー/腰憩め」と「平安山ノロ」が祭祀を執り行った「四ウマチー」でした。3日間行われる「クスッキー」の初日には「殿」で悪疫の集落侵入を防ぐ行事である「シマクサラサー/シマクサラシ」が行われ、集落では「アカフーゲーシ」とも呼ばれていました。この行事は男性を中心に行われ「殿」には豚の骨片を吊るした左縄を張り悪疫の侵入を阻止しました。また「四ウマチー」では「平安山ノロ」は白装束に身を包み、頭にはヤマカンダー(山葛)と白ハチマキをしめて祭祀を行ったと伝わります。


(孔連廟/コーシビョウの拝所)

(孔連廟の石碑とウコール)

(孔連廟のガマ)

「字平安山拝所」に向かって左側に隣接して「孔連廟/コーシビョウ」と呼ばれるガマ(洞窟)が祀られる拝所があります。「浜川集落」のウカミヤー(御神屋)に伝わる古伝によると集落の創始者は中国から渡来した後、この「孔連廟」のガマで暮らし始め、このガマで亡くなったとの伝承があります。コンクリート製の拝所に向かって右側に鉄格子が設けられ、その前方に「孔連廟」と刻まれた石碑が建立され2基のウコール(香炉)が設置されています。この鉄格子の奥に「孔連廟」のガマ入り口があります。「孔連廟」は3月の二十四節気の第五節気(旧暦2月後半から3月前半頃)のシーミー(清明祭)の入日に島豆腐・天ぷら・昆布・豚肉・かまぼこを詰めた重箱を供えてムラシーミー(村清明とも呼ばれるカミウシーミー(神御清明)を行います。


(喜友名小屋取/チュンナーグヮーヤードゥイ拝所)

(ゆしみぬ神の石碑)

(ゆがふの神の石碑)

(うぶ井戸の石碑)

「孔連廟」のガマが祀られた拝所に向かって左側に隣接して「喜友名小屋取/チュンナーグヮーヤードゥイ拝所」があり3つの石碑と三基のウコールが祀られています。「喜友名小屋取」は北谷町北部一帯に広がっていた屋取部落で「浜川集落」に属していました。「屋取/ヤードゥイ」とは首里の士族が沖縄の各地に帰農して荒地を開墾し住み着いた土地を言います。戦前「喜友名小屋取」の4箇所に「ユシミヌカドゥ/四隅の角」と呼ばれる拝所があり、現在は「ゆしみぬ神」として祀られています。屋号「ヤマーハマガージー/山浜川地」にあったビジュル(霊石)を祀った拝所では豊年満作と健康祈願を行うニングヮチャーの時に拝されており、現在は「ゆがふの神」として祀られています。さらに「喜友名小屋取」で子供が生まれた時に産水として汲まれていた「ウブガー/産井戸」も一緒に合祀され「うぶ井戸」と刻まれたの石碑が建立されています。


(アーマンチューガマ/向かって左側)

(アーマンチューガマ/向かって中央)

(アーマンチューガマ/向かって右側)

「喜友名小屋取拝所」から北西側に約300mの場所に「アーマンチューガマ」と呼ばれるガマがあります。戦前までこのガマは浜辺に隣接しており、洞穴の奥には人骨が散在していたと言われています。戦後は「アーマンチューガマ」の西側の干潟は埋め立てられ、現在このガマは「宮城海岸」から約500mの内陸に位置しています。「アーマンチュー/阿摩美津」とは「天の人」を意味し、沖縄を開闢したと伝わる「アマミキヨ/阿摩美久」の語源であると言われ「アマミチュー」の名称でも知られています。このガマは「アマミキヨ」が降臨した伝説があり旧暦2月の「ニングヮチャー」や旧暦3月の「カミウシーミー」の際、隣接する「砂辺集落」や他市町村から供え物を持ち寄って拝されています。今日の「アーマンチューガマ」はブロックで遮蔽され二基のウコールが設置されていますが、ガマの右側奥は洞穴の口が空いており内部を窺う事が出来ます。


(オータチャーヌシー/ウシックヮーガマ跡)

(オータチャーヌシーの墓地)

(オータチャーヌシーの森)

「アーマンチューガマ」から北東側に約100mの位置で「砂辺ヌ前屋取/シナビヌメーヤードゥイ」の入り口付近に「オータチャーヌシー」という高さ10〜15m程の岩山があります。この岩山は「浜川集落」では「オータチャー」と呼ばれ、集落の墓はこの岩山の周辺に多くあった事から子供達は怖がって近付かなかったと言われています。かつて「オータチャーヌシー」の西側に通る「ハルミチ」の側に「ウシックヮーガマ」と呼ばれる洞穴がありました。このガマの入り口は大きく、覗くと水が見え石を投げ込むと水音がしたそうです。集落の古老によるとガマの中には塩水が溜まっていたため西側の海と繋がっていたと言われていました。「ウシックヮーガマ」の上は見晴らしが良く木々は余り生えていなかった為、漁業を営む家は網や漁具を干す場所として重宝されていたと伝わります。


(砂辺ヌ前の合祀所)

(砂辺の前ビジュル)

(龍宮神)

「浜川集落」の北側で「砂辺集落」に隣接する場所は「砂辺ヌ前屋取」と呼ばれ、首里の士族や大宜味村「屋古集落」から移住してきた家々が連なっていました。「オータチャーヌシー」の北側で屋号「クシヌアラグシク/後ヌ新城」の西側角の場所に「砂辺ヌ前の合祀所」があります。この部落に点在していた「上の井戸/ウィヌカー・中の井戸/ナカヌカー・下の井戸/シチャヌカー」が合祀された拝所があります。この拝井戸に隣接して「砂辺の前ビジュル」の祠が建立されており石造りウコールが設置されています。このビジュルの拝所は旧暦2月2日のニングヮチャーに豊年満作と健康祈願で拝されています。さらに「砂辺の前ビジュル」に向かって右側には航海安全と豊漁を祈願する「龍宮神」の祠が移設されています。戦前は「砂辺ヌ前の合祀所」の西側約300mの位置に砂浜があり「龍宮神」はこの周辺に建立されていたと考えられます。


(砂辺ヌ前屋取の石敢當)

(マチグムイヌシーグワァー跡)

「砂辺ヌ前の合祀所」の南東側に約50mの位置に「石敢當/イシガントウ」の大小2つの霊石が祀られています。「石敢當」とは丁字路や角に設けられた魔除けの事で、この「石敢當」は戦前からこの場所を守り続けていると考えられます。また「砂辺ヌ前の合祀所」の南西側約300mの場所には「マチグムイヌシーグワァー」と呼ばれる岩がありました。屋号「マカルートゥキシグヮー/真苅渡慶次小」の先に構えており、この岩に登る3段の階段があったと伝わります。岩は保安林に覆われ周囲にはモクマオウ(トキワギョリュウ)が植えられていました。更に大きなイノー(珊瑚礁に囲まれた礁池)が広がり、旧暦6〜8月頃のスク(アイゴ)が寄る時期には集落の住民がエンダーと呼ばれる漁具でスクを捕っていたと言われています。現在「マチグムイヌシーグワァー」の岩は消滅し周辺は埋め立てられ、この岩の跡地は「宮城海岸」から約200mの内陸となっています。






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最終更新日  2022.12.16 21:49:42
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