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カテゴリ:国内旅行
湖東三山の紅葉巡りを堪能した翌日、この紅葉巡りの2日目も元気に起床。
ホテルの我が部屋も窓からの長浜の街並み。時間は6:55。 山裾に雲が棚引いていたが天気は良好。 そして朝食。 長浜駅前のビジネスホテルを出発し、この日の紅葉巡りへ。時間は7:32。 そしてホテルの近くにある琵琶湖湖岸に。 まだまだ我が影の姿は長く。 琵琶湖の南方向を遠望。 北の方向の山の頂きには既に雪が。 そして長浜城(ながはまじょう)の雄姿が。 長浜城は、滋賀県長浜市公園町の豊公園内にある羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城した日本の城跡。 1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から 浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から 一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに 隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始した。 同3・4年頃完成し入城。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りがで きるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。 そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。秀吉が最初に築いた居城であり、 秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもあると。 現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、 市立長浜城歴史博物館として運営されているのだと。 次に琵琶湖畔の道路を南下し『長浜びわこ大仏』に向かう。 現在のは2代目であると。琵琶湖大仏、びわこ大仏ともいうのだと。 長浜びわこ大仏は、滋賀県長浜市の『平安山良畴寺(へいあんざん りょうちゅうじ)』 にある大仏。臨済宗妙心寺派。山号は平安山。本尊は阿弥陀如来。 びわ湖百八霊場第4番札所。 1262年に鎌倉幕府執権北条時頼の開創、佐々木道倫の開基、天山和尚の開山で始まる。 その後、織田信長の兵火による灰塵、天災による琵琶湖中への陥没などもあったが、 宝永年間(1704~1711年)彦根 『長浜びわこ大仏』。青銅製の阿弥陀如来像で高さは何と28m。 八角形の台座1階内部には中央に祭壇。 壁面にはずらりとびわこ大仏のレプリカが並ぶとのことであったが、 早朝の為か入れなかった。 境内の大きな説明板に、びわこ大仏のことが詳細に記されていた。 今のびわこ大仏は2代目で、初代のびわこ大仏こと護国阿弥陀如来は昭和12年に完成した コンクリート製(高さ27m)なのだと。初代の大仏は階段を上って胎内巡りが出来たと。 そして、残念ながら既に平成4年に取り壊されてしまったと。 お顔をズームで。 螺髪(らほつ)の数は?。すべて右巻きになっているのだが。 正面中央の螺髪の中にある赤いのはなんだったのしょうか? 大仏と池に映る大仏を一緒にカメラに収めたかったが、大きすぎて。 水面に映る『長浜びわこ大仏』を。 納骨堂の前には初代大仏の前にあった香炉が。残ったいるのはこれだけと。 上に立つのは初代大仏のミニチュア。 そして本堂近くにあった石仏。これもコンクリート製? こちらの仏像は初代と同時期なのであろうか? 細かい造形、このふくふくしいお顔。 冬支度の済んだ?六地蔵。 庭の紅葉も見事であった。 そして次の探索寺の『鶏足寺』に車を進める。 奥びわ湖の長閑な風景を車窓から楽しむ。 奥びわ湖の田園の中をひたすら走る。 そしてまほろばの館近くの駐車場に到着。時間は8:51。 『奥びわこ 観音と薬師の里 古橋周辺案内図』 「紅葉散策協力金」の200円を支払って散策開始。 『旧戸岩寺・輿志漏神社(よしろじんじゃ)』。 石鳥居には『輿志漏神社』と書かれた扁額が。 参道の紅葉を楽しむ。 與志漏神社境内のもみじも紅葉の見頃。 この日は青空の下で紅葉・黄葉が輝く。 二ノ鳥居。 右手に鐘楼が。 『薬師堂』。 旧戸岩寺の本堂にあたると。 戸岩寺は霊亀2(716)年の創建。 本尊の薬師如来は、僧行基により伊香山(異光山)五ツ岩の麓からこの地に移され 岩にちなんで戸岩寺と名付けられたもの。 八世紀末頃から伝教、空海、慈覚等の高僧が相次いで来錫し、七間四面の薬師堂を始め 大日堂、観音堂、鐘堂、経堂、念仏堂等を建立し、全盛期には岩本坊、阿弥陀坊、開寿坊、 真乗坊、道禅坊、長円坊の六坊を構えて栄えた。現在は薬師堂及び大日堂を残すのみ。 境内の輿志漏神社は世代大明神として古代から余領郷の氏神として崇敬された神社。祭 神の波多八代宿禰は古事記、日本書紀では武内宿禰の子で淡海臣の祖と。 『与志漏神社(よしろじんじゃ)』。 「与志漏神社の創建は不詳ですが古くから余領郷の氏神として崇敬される大社だったと 伝えられています。境内背後の山の斜面には製鉄炉跡もあり古代の精錬技術者の 氏神や祭神である波多八代宿禰(武内宿禰の子で淡海臣の祖)の子孫である波多氏との 関係も深いものと推定されています。又、伝承によると景行天皇(71~130年)の御代、 勅命により当地を巡視した武内宿称が、大蛇の被害により荒廃した村々を目の当たりにした為、 息子である波多八代之宿称に討伐を命じました、波多八代之宿称は素盞鳴尊縁の神剣を手にして 大蛇を討ち取ると、村人達は波多八代之宿称と神剣(素盞鳴尊)に感謝し社を設けて祭ったと 伝えられています。」 そして鶏足寺に歩を進める。 まほろばの里の小川の流れ。 薄緑、黄色、オレンジ色のグラデーションが陽光に輝く。 栃の実入り五平餅売り場が。 茶畑も見えて来た。 『亀山』の丘と呼ぶ場所。 収穫後か?見事に刈り込まれていた。 こちらで産出されたお茶は石田三成ゆかりの「三献茶」として市販されていると。 「三献茶」は石田三成のエピソードからと。 ある日、豊臣秀吉が鷹狩りの途中に訪れたお城で、秀吉にお茶を出したのが三成でした。 このとき、三成は一杯目には、大きな茶碗にぬるめの茶を入れて出しました。 二杯目の茶碗は前に比べると小さめで、湯はやや熱めで量は半分くらいで出しました。 秀吉はそれを飲み干し、もう一服を命じました。 三杯目の茶碗は高価な小茶碗で、湯は舌が焼けるほど熱く量はほんのわずかにして出しました。 鷹狩りで喉が渇いていたことや、その休憩として立ち寄ったことを踏まえ、相手の気持ちに 寄り添った三成の心配りに秀吉は感動したそうです。 この心配りに感じいった秀吉は、その小姓を城に連れて帰り家来とした。 この小姓が、その後昇進し、五奉行の一人、石田三成となったのである。 紅葉を愛でる道すがらに思いがけずに気持のいい緑一色の景色が拡がっていたのであった。 鶏足寺手前の紅葉も見事。 陽光が射し込んで赤、黄葉が輝く。 ・・・その10・・・に戻る ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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